top of page
DSC_0093.JPG

     8.   炭住の共同浴場

                「われわれはただそこに自由な開かれた世界の反映を見るだけなのだ、
               しかもわれわれ自身の影でうすぐらくなってゑる反映を。」リルケ「第八の悲歌」

父大塚巧は、あの「事件」(巧の「実存」を根本的に揺らがしたPTSD)故「早熟」でもあった。
炭住では共同浴場/ 銭湯だった。
入れ墨の男も少なからず目にした。
多分2-3歳頃だったので、母親と一緒に母親☆☆俊子に連れられて女風呂に入った。
普通なら、何の不思議もない光景なのだろうが、父巧は少し違った。森の中で見た光景のせいもあるのかもしれないが、「性」に敏感だった。
母親☆☆に連れられて入った女風呂で見た数シーンが目に焼き付いている。
未だ二十歳そこそこの母親の白い肌・・豊かな乳房・・
近所の女学生たちの白い裸体・・湯に濡れた艶やかな肌と、そんな肌に張り付いた髪の毛・えり足と、うぶ毛と、膨らみかけた胸・乳首・・・
勿論、大人の男が持つであろう欲情に満ちた感情とは全く違った何か・・である。同世代の幼児の男の子が持つかもしれない感情とも全く違っていた。しかし、確実に『女』性という、自分とは全く違った『性』故の感情である。


  ************* 

 
ある日、遊んでいると、大人たちが走って共同浴場に向かった。
巧も走って行った。
中年の、どす黒い顔のおじさんが横たわっていた。銭湯の高い煙突掃除中に落ちたとのこと。
人混みをかき分けて、そのおじさんの直ぐ横に立った。
担架に乗せられたおじさんの顔が少し動いた気がした、私の方に。
その瞬間・・「時間」が止まった。
世界が、そのおじさんと巧のふたりきりになった。
おじさんが、じーっと巧を見つめている。
もう既に、生きた「人間」ではなかったのだろう。かといって死者の目でもなかった、確実に。
しっかり瞼を開けて、独特の、どんよりした目で自分を、巧をしっかり見つめている。
恐ろしさも驚きも(未だ)ない。「死」すら未だ理解していないのだから当然である。
ただ、ひとりのおじさんと、ひとりの自分が無言で、みつめ合っている。
そんな時間が、ずーっと続いている。
時間がずーっと止まり続けている。今でも、あのおじさんとみつめ合っている。

 

     3.   炭住「□□社宅」・・・


              「労働組合は社会主義の学校」(マルクス)

母親☆☆は、出産のために実家に帰ってきていただけで、間もなくして、熊本県荒尾市にあった、三井鉱山の炭鉱住宅、所謂「炭住」である□□社宅の安普請の平屋の長屋に戻った。母親☆☆は、とても気が重かった・・。

 1953年・・・戦後8年経ち、3年にも亘った朝鮮戦争の休戦を契機に、朝鮮戦争特需の反動で不況が日本に襲いかかり、吉田内閣は、スト規制法を強行すると同時に、日米相互防衛援助(MSA)協定を結んで、事実上の米国の「植民地」下での再軍備に突き進んだ激動の時代だった。三池炭坑にも終戦直後1946年に「三池炭坑労働組合」が結成されたが、会社は、2回もの人員整理によりレッドパージを強行した。

労働組合の側も組織を強化し、三池炭婦協(三池炭坑主婦会)も結成され、家族総出での闘争態勢を整えていた。
母親☆☆と父親△△と、生まれたばかりの巧が棲む炭住、□□社宅も例外ではなく、三井鉱山が5738名もの首切りを発表した1953年8月7日以降、労働組合員のみならず家族も「首切り撤回」を掲げてピストンデモ、本社抗議デモ、総決起集会、公開団交、座り込み、ストライキ、減産闘争等、毎日、闘争に動員された。
「炭住」故、会社の人間関係がそのまま反映されていた。未だ、会社側が労働組合を切り崩して1960年に御用組合を捏ち上げる前だったので、「炭住」つまり三池労働組合の「解放区」の様相だったのである。三池炭婦協の主婦会も次第に戦闘化して、デモも集会も半ば半強制だった。

農家の、未だ19-20歳の少女には理解できない世界だった。主婦会の学習会に出さされても、内容以前に唯々、強制されることが嫌だった。折角兄の厳しい躾から逃げ出したと思っていた憧れの「町のサラリーマンの奥さん生活」も、別の更なる厳しさに直面した。

それに反し、10歳年上の夫、巧の父親△△は、左翼思想にのめり込んでいた。
当時、組合は、九州大学の向坂逸郎教授を講師に招いて社会主義の学習会を開催していた。所謂「向坂学校」である。そこから戦闘的な新左翼活動家、三池労組の組合活動家をたくさん輩出していた。組合の理論武装の場だったのである。文字通り「労働組合は社会主義の学校」(マルクス)だった。ましてや、大労働争議の真っ只中で、資本・国家権力から総攻撃を受けていた搾取の現場だったのだから、社会主義者にとっては、とてもいい学習の場だったのだろう。


29-30歳の△△も、熱心に学習会に参加し、戦後民主主義の中、革命思想に染まっていった。自称「向坂学校の優等生」と自慢する程だった。
「革命的高揚感」もあってか、毎晩母を求めた・・。

 

     4.   病院の匂いとコスモス ・・・

「男に女を差し向けて交わらせ、女に男を差し向けることによって」パルメニデス(「アリストテレス「自然学」31,10)

 

 普通、人間は何歳頃迄記憶を辿ることができるのだろうか。

 父大塚巧は、戦後最大の労働争議であり、「革命前夜」とまで言われた「三井三池大争議」の極限状況下での大人たち、人間たちの余りにも特異な出来事のために、2-3歳の頃の記憶の痕跡があった。

 

 巧の母親☆☆は、巧を産んだ後、妊娠中絶をくり返していた。4回目、子宮外妊娠だった。○○大牟田病院で大手術した。死線を彷徨い、半年近くもの入院となった。

 未だ幼かった巧は、++農家に嫁いでいた*番目のお姉さんの所に預けられた。父親****が一目惚れしたお姉さんの所である。

 ○○(熊本では「△△△」と発音する)のお姉さんの嫁ぎ先は、山の中の部落である。

 巧には、鮮明な記憶が残っている。男尊女卑が根強い熊本では食事の時、お姑、お舅には絶対服従であり、甲斐甲斐しく卑屈にまで世話をするお姉さんの姿と、お姉さんの子どもたち・・みんな押し黙って正座して食事している。お姑、お舅は、幼児の巧には愛想笑いどころか全く声も掛けず、同年代の子どもたちからも巧は全く無視された。それどころか、「町の子」巧の「町のことば」遣いをクスッと薄ら笑いするのを敏感に巧は感じ取った。

 誰も遊んでくれず、孤独だった。お姉さんの目の届くとこに居たには居たが、お姉さんもひっきりなしに忙しなく家事やら家畜の世話やら畑仕事やらに手いっぱいだった。

 

 九州の、熊本の蝉は、それらしい鳴き方をする。ずっとずっと後、沖縄のジャングルの中で蝉の声を聴いた時、この時の蝉の声を想いだした。とてもよく似ているけど、琉球は琉球の蝉の声であり、熊本は熊本の蝉の声だった。九州の、熊本の夏は、それらしい「暑さ」がある。そのじっとりした、木々の葉の匂いと、激しい迄の蝉の鳴き声。九州の、熊本の、○○の「農家」は、それらしい匂いがある。絵本を読んでくれるどころか貸してもくれず、子どもらしい遊びにも入れてくれず、巧は唯々、そんな「空気」をひとり吸っていた。毎日毎日、何をするでもなく・・。

 

 暫くして、○○のお姉さん(巧にとって、おばさん)が○○大牟田病院に見舞いに連れて行ってくれた。

 今の病院とは全く違った病院特有の消毒液の強い匂いがある。木造建築の、小学校みたいな、病院の渡り廊下と、真っ白い看護婦さんたちの姿と、庭に咲くピンクのコスモスの花が鮮明に目に焼き付いている。

 母親は泣いていた。唯々泣いていた。

 子どもらしい感情を出すこと、わがままを言うこと、駄々をこねることすら知らない幼児は、母親の涙をじっと見つめることしか出来なかった。母親も、母親らしい愛情溢れる笑顔も見せず、ひさしぶりに会った我が子に嬉しいという感情も出さず、抱き抱えるでもなく(医師から禁止されていたのかもしれない)ただ、泣いていた。

 巧は、訳もなく、唯ひたすら、かなしかった。言いようのないかなしさだった。何故かなしいのか、それすら、わからなかった。涙をいっぱい溜めても、大泣きするこどもではなかった。

 

 ずっと後になって、母親がお茶飲み話で友人に話していたのだけど、自分が死んだら、こどもがひとりになり、継母に虐められるから絶対死ねないと頑張ったそうである。かなり危なかったようである。その時の輸血で、その後一生慢性C型肝炎の体となった。

 

 しかし・・あの涙は・・違う・・気がする。

DSC_0095.JPG
DSC_0094.JPG


本を整理していたら出て来ました。
購入当時めちゃ超多忙で、買ったことすら記憶してませんでした。
何か気になり続けていたのでしょう、数回の本整理・処分に生き残っていたのですから。
今、「三池」を問い直して文を書いているので、大助かりです。
「三池閉山」・・父は何を思ったでしょうか? 母は何を思ったでしょうか? 
何も思わなかったのでしょうか? そんな筈ない・・と信じたいです。
わたしは、今、ココロが痛みます。
#BucketList本を整理したい
#BucketList近代化を問い直したい
#BucketList三池争議を問い直したい
#BucketList土下座して謝罪したい

IMG_0117.JPG

     5.   蝉の鳴き声と・・・

「さておみな おのことともに 「愛」の芽(たね)を ともに混ぜ合う」 パルメニデス 断片18 

 夏の暑い日、○○のお姉さんの農家で、強烈な印象に残る体験を「初めて」した。たぶん、それが、「初めて」の「事件」なのだろう。この事件のために、巧は「時」が止まった。ずっと、この「時」に居続けている。巧の基層・深層の記憶となり、後で話す、その後の「事件」とともに、その後の生に、体内被曝のように放射線を出し続けている。無意識の基底・心底から。その最初の「事件」だった。「事件」と言う程でもない、ありふれたことかもしれないけど、巧にとっては、『世界』と触れ合う「初体験」だった。

 忙しなく働く○○のお姉さんに言につけられた遊び場所から、ふと離れたのだろう。この辺の事情は記憶にない。

・・・気が付くと、裏山の森の中にひとりで迷い込んでいた。蝉の鳴き声が滝のようだった。南国特有の強烈な湿気と夏の暑さと森林特有の匂いと果実の甘酸っぱい匂いと、蝉の滝・・・。ひとりで彷徨った。「寂しさ」というのも未だわからない。「怖さ」というのも未だわからない。ただ、ひとりで歩いた。歩き続けた。未だ、歩き初めて間もない幼児は。


ふと、時が止まった。ずっと続く蝉の鳴き声の滝・・・世界は、其れだけになった。「永遠」という言葉も概念も未だ知らないけど、この蝉の滝の中に永遠に居続ける・・そう感じた。「永遠」という概念も未だ持ってなかったが。其れ以前に「時間」も未だなかったし。


強烈な太陽。強烈な日射し。木漏れ日。強烈な蝉の叫び。汗でぴっしょりになった。咽せるような森林の匂い。果実の甘酸っぱい匂い・・。


時は、止まっていた。止まり続けていた。

・・・ふと、思った。なぜ、ここにいるの?

そんなこと一瞬思ったかもしれないが、ただ時が流れた。いや、確かにそう思った・・。
その感覚は、表現し難いけど、まるで上の方から別の視点から自分を見下ろしているような。。

不思議なものを見た。


ひと・・である。
ひとと・・ひとが、草叢(くさむら)の中で横たわって蠢(うごめ)いていた。
おんなのひとがしたになり、おとこのひとがうえになり・・はげしくうごいていた。

じっと見た。なんの感情もなく、ただ、見た。
あいかわらず、強烈な蝉の滝と、強烈な太陽と、草叢の咽せるような青臭い匂いと・・。草が擦れる音と・・・喘ぎ・・おとこと、おんなの・・。

誰もぼくにきづかない・・。まるで、ぼくは、いないみたいに。この世に。

ひとは、何時頃まで、記憶を遡れるのだろう。


幼児の頃、強烈な事件が立て続けにあったせいか、2-3歳頃の記憶が痕跡として残っている。全てのことが連続してではなく、ところどころ断片として。しかし、強烈に記憶している。まるで、数十年経っても、目の前に見える・・手に取るように。空気感も臨場感も湿気も温度も光も微風も匂いも・・・。時間が止まっている。時間がずっと止まり続けている。今でも、あの蝉の森の中にいる。・・おとこと、おんなが「行為」する前で。ひょっとして、ほんとうは、ぼくは、このよにいないのかもしれない。

                                                2020.12.22
 

DSC_0003smallOhira20160606大平社宅.jpg
DSC_0012smallSiekoMichOhiraNoTrimming201
DSC_0030smallMichMikawaClub三池20160606.jp
DSC_0051small2015040820160418三井三池製作所父.jp

1.0「世界不安症候群」

この文を書くこと自体躊躇ってましたが、あることがきっかけで、書かなくては!と思いました。
ある女優・・・竹内結子さんのニュース速報を聞きながらハッとしました。当初「原因不明」という点と、彼女のある文章から・・。

「世界不安症候群」World Uneasy Syndrome: Welt-Angst-Syndrom:  

ネットで調べても引っかからないので、多分ここで初めて使う言葉なのでしょう。
精神医学もここ数十年でかなり変化してきました。「社会不安症候群」という用語はありますが、一番近いでしょうが、本質的に違う内容です。

18歳の竹内結子さんの文章「なじめない自分に対する嫌悪と、理由のよく分からない疎外感をいつも抱いていた」・・・。桜井亜美の小説『サーフ・スプラッシュ』の17歳の女子高生が「居場所が見つけられない」『私は余計な存在なんだ』と感じた点に彼女が共感したのかもしれません。「晩の賑やかな食卓の景色が、私にはガラス越しのものに見えた」と竹内結子さん。

実は、ずっと考えていて、竹内結子さんもそうかも、とも思ったのですが、少し・・かなり違うかのしれません。

「世界不安症候群」・・
症状:自分自身になじめない→強い自己嫌悪・強い劣等感/ 漠然とした強い疎外感/ 居場所がない→世界の中に居ない/ 「世界」がガラス越しのものに感じられる→別の「世界」があり、自分はそこに居るのかもしれないという感覚になる・・
この辺までなら「竹内結子さん」の場合でも納得するでしょうが・・・更に・・
「世界」が存在していること自体に強い違和感がある→自分が存在していること自体に強い違和感がある→「世界」の中に『居心地が悪い』→『居心地』をよくするために「世界」が存在する理由が知りたい/ 『居心地』をよくするために自分が存在する理由が知りたい・・・「世界」を成立させている「自己と他者」の難問に躓く→人生観・世界観・倫理的とかいうレベルでなく、もっと本質的・根源的・物理的・宇宙物理的・量子力学的・・に『知りたい』。。


「世界不安症候群」・・
症例1:間違いなくParmenides はそうだったのでしょう。
症例2:間違いなくWittgenstein はそうだったのでしょう。
症例3:無意識ですが感覚的な部分で、與謝野晶子は近い位置に居たのでしょう。あるいは、「女性」一般がそうなのかもしれません。「男性」には絶対理解不可能な部分でしょう。
症例4:写真家「牛腸茂雄」の"Self and Others" の問いから、彼も「世界不安症候群」に近い患者だったのかもしれません。彼の場合、「写真」に手掛かりを求めたのでしょう。
症例5:「大塚櫻」・・実は、私自身です。その「私」を「大塚櫻」と呼んでます。

 

「人間」にとって、この世に生を受けてから4-5歳迄というのは極めて重要な時期であることは間違いないでしょう。その時期に、三井三池炭坑の炭住で暮らしていました。あの「革命前夜」と迄言われた「三池労働争議」の真っ只中で。あの「水俣」と同時期に、同じ有明海沿岸の大牟田・荒尾でです。「水俣」に匹敵するかもしれない程のコンビナート排水垂れ流しの大牟田・荒尾で。


歴史の表舞台だった「三池闘争」の過程で、裏の労働者家族の実生活の場でも、大きな悲劇が繰り広げられていました。「私」という「実存」を根本的に揺らがす或「事件」が5歳迄に連続して発生し、そのお陰で、信じられないでしょうが、1歳頃、もしかすると0歳迄もの記憶が断片的ですが強く残ってます。典型的なPTSDですが、当時はそんな概念も用語もなく、精神医療も劣悪でしたから、全くの放置です。両親も、なんらなす術もなく、心配するだけでした。自分ひとりで克服する・耐えるしか仕様がありませんでした。
その点から判断すると、私の生の「原点」「原風景」は病んでます。


お陰で、親離れはとても早かったです。自分離れも・・・・。


「三池労働争議」の結末は、あの1963年「三池炭坑三川鉱炭塵爆発事故」です。即死458名、一酸化炭素中毒症839名を出した惨事です。皮肉なことに、争議で「第1組合」と大乱闘までして「職場死守」「勝利」した筈の、会社・資本・政府が捏ち上げた「御用組合」組合員が被害者の大多数です。この中には、戦時中強制連行された朝鮮人と被差別下層労働者も含まれてました。

実は、責任があるのです。私たち家族には。
1963年、私たち家族は、東京に住んでました・・・から。

この問い直しを「小説」にしようとしてました。実は、そのプリアンブルが「歌にきけな」です。
しかし、本編を書くことは、死者に、親に鞭打つことを意味するので筆がなかなか進みませんでした。

「小説」という形式ではなく、まったく別のやり方で思索を表現していこうかと思います。なぜなら、前述の事柄の本質は、「近代化」そのものの問い直しでもあり、普遍性があるのですから。ひいては、「人間」そのものへの「問い」でもあるのですから。

ここから、『余りにも曖昧な「現実」・・もうひとつの「三井三池」』(仮題)を再スタートすることにします。

 

2020.12.02
 

DSC_0005SIEKOsmall20160409.jpg
DSC_0007SIEKOsmall20160410.jpg
SMALLDSC_888520171007.jpg

Requiem for 458 souls of Miike Disaster on 09.11.1963 
Requiem for 144 souls including 116 children of Aberfan Disaster on 21.10.1966.
                                                                  by Otsuka Sakura
Miike Disaster
The Mitsui Miike(三井三池炭坑) disaster was the catastrophic coal dust explosion(炭塵爆発) of a Mikawa-Colliery(三川鉱) in Fukuoka(福岡県大牟田市) on 09 November 1963. It caused killing 458 and patients of carbon monoxide poisoning(一酸化炭素中毒症) 839 miners.

aum namaha syvai          all to God
aum        fundamental tone to create space(宇宙を創造する基本音)
buhl       material world(物質界)
buwat      astral world(幽界)
suwaha     soul world(魂世界)
tat savytul walehnyam 
                            I honor the extreme entity and the power to activate the universe.
balgo dehvassha dyhmahi               I meditate shining deity and grace.
dyhoh yohnat placcohohdayaht          I beg give us wisdom of universe.
gayatry                               Mother of Universe to support and sustain life
mantra

On deathday 09.November 1963,
For 458 killing all souls and thereafter died/killed carbon monoxide poisoning all miners,
I have to confess and repent for my and my parent's sins, Escaping and Surviving...
I don't wanna say "Pray, Forgive me and my parent".
I, not we, have to bear my cross forever.

I know the victims include Chosen-Peoples(Korean) were moved forcibly in JP. Empire.
I know the victims include discriminated-against peoples, the basest.
So I have to be in poverty honourably.
So I have to be a trainee monk.

I can speak Korean to some extent,
 so long and enthusiastically I've learned.
Just now, I know that hidden reason, 
not out of curiosity, but.. 
I have to.
In atonement for my sins.

Aberfan Disaster   "In 1966, in a small village in South Wales, on the 21st. of October, Pantglas Junior School was engulfed by a slide of mud and coal slag. One hundred and forty four souls lost their lives, including one hundred and sixteen children." Owain Glyn
We Japanese have to be responsible for Aberfan Disaster at least partially, 
because we're primer and had known.
And now, we, not only Japanese, benighted heathens are repeating same mistakes, invisibly.

Miike and Aberfan all the souls Rest In Peace.

                                        Poem by Sakura Otsuka 2020.11.17
 

Aberfan and Miike       Poem by Sakura Otsuka 


"In 1966, in a small village in South Wales, on the 21st. of October, Pantglas Junior School was engulfed by a slide of mud and coal slag. One hundred and forty four souls lost their lives, including one hundred and sixteen children."  extract from Poem by Owain Glyn 

 

Miike Disaster
The Mitsui Miike disaster was the catastrophic coal dust explosion of a Mikawa-Colliery in Fukuoka on 19 November 1963. It caused killing 458 and patients of carbon monoxide poisoning 839 miners.

    09 November 1963     Miike Disaster
    21 October  1966     Aberfan Disaster

Poet   I can't understand what caused 1966 Aberfan Disaster because before 3 years 1963 Miike Disaster caused.
Moira(God of Greek Myths means "Fate")   Fortune's fickle wheel.
Poet   We human being already knew the dangerousness of coal property.
Moira   We can only say NOW "Let Miike Disaster be an Object Lesson to Aberfan."
Poet   I'm very sad for one hundred and sixteen children of Aberfan. 
Moira   Human Being repeats mistakes.
Poet   What stupid...
Moira   Human Being is easy to forget. 
Poet   We have to remember the Aberfan Disaster and the Miike Disaster.
Moira   Right. It's important not only for one hundred and sixteen children and four hundred fifty eight miners and patients of carbon monoxide poisoning 839 miners but also for Human Being living now and especially for future children too.
              even if it's desperate and hopeless.


                                                            Poem by Sakura Otsuka 2020.10.20
 

推薦・基調図書

黎明 上巻 

葦原 瑞穂 著/

太陽出版 2001.5.1 刊  ISBN488469225X

宇宙の一切を包み込んでいるのに

ひとつの原子の中にも その総てが在るもの

久遠の昔 そこから私はやって来て

永遠の時を掛けて 私はそこへ還って往く

それが 私の求めているものです

bottom of page