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好きな写真と写真家 マイケル・ケンナ 「永遠」が写り込む静かな世界


 自分でモノクロ銀塩写真を撮り、自分でフィルム現像し、自分で紙焼きする人間にとって、マイケル・ケンナは、1つの大きな目標かもしれない。ハッセルブラッドで撮影された中判フィルムは、恐ろしい程の美を醸し出している。

 明と闇の狭間から、人間の生物的な眼では見えない異次元が姿を見せることがある。マイケル・ケンナのハッセルブラッドは、其れを見逃さない。マイケル・ケンナの撮影技術と、現像技術は、繊細な猟犬の如くである。

 「決定的瞬間」という言葉が大事にされがちな「写真」だが (それはそれで「カメラ」という装置の大きなメリットなのだろうが) 、マイケル・ケンナの被写体は、それとは真逆なのかもしれない。日常の、ありふれた風景に潜む「神秘」「永遠」「異次元」こそが「写真」の被写体であってよい。否、そんな被写体を撮れる写真家は希だろう。

 こんなマイケル・ケンナの、被写体との向き合い方が好きだ。前者(「決定的瞬間」のカメラ装置)は、ムービーに適わないかもしれないし、特に、コンピュータ時代のデジタルの眼には適わないかもしれない。しかし、後者のマイケル・ケンナの視点と被写体と方法は、デジタルの眼では不可能だ。何故なら、其れは、撮影者・写真家の微妙な感性・繊細な人間性にこそ基盤があるからだ。

 今、時代が突入しつつあるAIのパラダイムシフト時代に、人間が人間である領域を必死に模索する手掛かりが此処にあるのかもしれない。

写真集"MICHAEL KENNA A TWENTY YEAR RETROSPECTIVE" の中で特に気になるのが、Plate 124. THE ROUGE, STUDY 7, Dearborn, Michigan, USA. 1993 の一枚である。ベルント & ヒラ・ベッヒャー (Bernd & Hilla Becher) の「採掘塔 Winding Towers 1962-1966」の写真と同様に、私の原風景である。こんな「風景」の下で育ち、傷付けられた。

写真というもの自体の「客観的評価」とは、そもそも可能なのだろうか。「世界で起きることはすべて自分に責任がある」というスピリチュアルの視点があり、この言葉の納得・理解の可否が、そのひとのスピリチュアルのレベルを示すということがあるのかもしれない。

 マイケル・ケンナのPlate 124に全体として(ホリスティックに)私が惹かれるのは、私と私の世界との関係の中での出来事故である。例えば、一般的にPlate 124が良いとか悪いとか議論することに何の意味があるのだろうか。まぁ、光と影の描写の仕方とか、暗室技術・撮影技術とかで議論することは有意義であるかもしれないが、写真自体として「客観性」は成り立つのだろうか。成り立つという立場は、少なくとも「写真」にとって本質的な場ではないのかもしれない。

 無条件に、言葉を超えて、「この写真はいい!」ということがあるのが「写真」なのだろう。


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