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「自然とは、われわれ程度のものがケアすべき対象ではないかもしれない」「〈私〉は〈私〉の自然を馴致されない姿においてとり戻さなくてはならない」稲垣立哉


「本当は、自然とは、われわれ程度のものがケアすべき対象ではないかもしれない。尊さにおいて対象をもち上げることは、対象の畏れるべき側面を、自己に矮小化して語るだけのことかもしれない。等身大に倫理化された自然は、出来合いの〈私〉という形象に牙をむいてくる力をそぎ落とされてしか描かれないだろう。おそらく生命は、われわれがそれを大切にしようとすればするほど、我々自身を罠にはめ、〈私〉の卑小な善意を裏切り、その過酷さ自身によって〈私〉を蹴散らしていく。 もちろんわれわれは無限を直視する能力などもたないから、それに向かうときに、〈神秘化〉なり〈倫理化〉なりの措置はどこまでいっても不可避であるかもしれない。しかし問題は、これらの措置によって捏造される生命に関する物語が、生命のもつ多様な屈曲をとり逃がす可能性を高めていることにある。そしてそれが生命の規準を越えたエネルギーを、再び「人間」的な目的性のなかに捉えてしまう危険があることにある。生命を巨大な母胎として表象し、自然を守るべき倫理的対象となすことにより、人は「人間」的な幻想のなかに安心して眠り込み、生命であることの触発を不十分にしか受け取れない。こうしてわれわれは、われわれ自身である自然を扱いえなくなる。しかし、それは〈私〉である存在と〈私〉である生命に対しても、つまりは〈私〉という〈魂〉にたいしても正当な態度ではないだろう。〈私〉は〈私〉の自然を馴致されない姿においてとり戻さなくてはならない。それが〈私〉と生命との交錯の現場を重視してきた思想の努力を、近代的な幻想の装置に惑わされことなく繫ぐための途であるだろう。そしてそれは、生命の力である〈私〉に、〈私〉であることの〈魂〉に、正当に対処する唯一の方法であるかもしれない。」p264-265 稲垣立哉「生命の強度 来たるべき哲学のために」・・「「私」はなぜ存在するか―脳・免疫・ゲノム」(哲学文庫) 多田 富雄/‎ 養老 孟司/中村 桂子 著/哲学書房 (2000/09)刊

 多田 富雄の「免疫学」関係の本を読みまくった。

1. 免疫の意味論 多田 富雄/ 青土社1993/4/30 /

2. 生命の意味論 多田 富雄/新潮社 (1997/2/1) /

3. 免疫・「自己」と「非自己」の科学 (NHKブックス) 多田 富雄/NHK出版 (2001/3/23)/

4. 免疫学個人授業 多田 富雄/南 伸坊/新潮社 (1997/11/25)/

5. 好きになる免疫学 (KS好きになるシリーズ) 萩原 清文著/多田 富雄監修/ 講談社 (2001/11/12)

6. 言魂 石牟礼 道子著/ 多田 富雄/藤原書店 (2008/6/18)

7. 生命―その始まりの様式 多田 富雄/ 中村雄二郎編/誠信書房 1994/05/20/

8. 「私」はなぜ存在するか―脳・免疫・ゲノム(哲学文庫) 多田 富雄/ ‎ 養老 孟司/中村 桂子 著/哲学書房 (2000/09)

9. 生命へのまなざし―多田富雄対談集 多田 富雄/青土社; 新装版 (2006/4/1)

 一番印象深かったのが、冒頭の稲垣立哉の所見だった。

 免疫系、脳神経系、内分泌系、そして、遺伝子系・・これらが「人間」の各構成必須要件なのだろう。それら各要件を統括するコトとして、生命のホリスティック「emergent property」が成立するのだろう。その上に立って「回復する生命」(「免疫学個人授業」 多田 富雄/南 伸坊/新潮社 (1997/11/25) p162)としての生命系が成立するのだろう。

 冒頭の「自然とは、われわれ程度のものがケアすべき対象ではないかもしれない」(稲垣立哉)のテーゼと、「自然」の『アルケー/根拠』探究として始まったPhiolo-Sophia/愛智/哲学の途との関係を問いたい。現代基礎医学・生物学といった「自然」科学レベルでは、「自然とは、われわれ程度のものがケアすべき対象ではないかもしれない」という命題は、有効性が成立するのかもしれない。それすらも突き抜けた哲学的探究の途がタレスであり、パルメニデスといった「ソクラテス以前」であるとすると、「自然とは、われわれ程度のものがケアすべき対象ではないかもしれない」という命題が有効であり得るかもしれない現代最先端「自然」科学の医学・生物学に対して、パルメニデスといった「ソクラテス以前」は、如何なる位置を取り得るのか・・如何なる「場」を持ち得るのか・・・・それを問いたい。それは、同時に、最先端物理学・天文学の「宇宙論」の有効性を問うことにも繋がるのかもしれない。

 『問い』を明確に立てること・・これも「哲学」の重要な仕事の一つなのかもしれない。『問い』に解答が在るのか否かということと、『問い』を明確に立てることとは明確に違う。『問い』に解答し得ないのかもしれないということと、解答し得ないということとも全く違う。それらをもトータルに突き抜けた場にこそパルメニデスは佇立している。

 それは、『言魂』(石牟礼 道子著/ 多田 富雄/藤原書店 2008/6/18刊)の地平を超えた遙か彼方に存在するのかもしれない。其れすらも幻想かもしれない。それを承知の上で『問い』を発せざるを得ない者が居る。人生を棒に振るのかもしれない。それでも問わざるを得ないのなら問えばよい。

 「してみてよきにつくべし」・・試行錯誤こそ人間の本質なのかもしれないのだから。

 「〈私〉は〈私〉の自然を馴致されない姿においてとり戻さなくてはならない」(稲垣立哉)のだから。


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