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コーンフォード「ソクラテス以前以後」を読みました。あるいは、「AI」 は「パラダイムシフト」か????


「ソクラテス以前以後」 (岩波文庫) F.M.コーンフォード、 山田 道夫 訳/ 岩波書店 (1995/12/18) F.M.Cornford "Before and after Socrates" を読みました。

 訳者によると

1. 「本書においてコーンフォードが取り組んだのは、「ソクラテスによって哲学が自然の研究から人間の生の研究へと方向転換したことの意義をわかりやすく伝える」こと、ギリシア古典期の思想史において「なにゆえソクラテスの生涯と仕事は、その歴史における決定的段階あるいは転換点を画するものとして他から区別されるのか」を解き明かすことだった」p144 「解説」とのこと。

2. 「ソクラテスにギリシア本来の哲学的精神の堕落を見るフリードリッヒ・ニーチェとは対照的に、ソクラテスによる人格的倫理的主体としての魂の発見と希求切望の精神を核とする哲学の成立・展開という、ひとつの正統的古典的な精神史をきわめて鮮明に描き出した」p145 「解説」とのこと。

3. 編集者による(多分)表紙の解説には「ソクラテスという天才がいかなる背景から真に新しく普遍的な思想の地平を開いたのか」・・とのこと。

 これら3点の視点に反対です。と言うか、2で述べられているように、私もニーチェ同様に「ソクラテスにギリシア本来の哲学的精神の堕落を見る」立場に近いのかもしれません。まぁ、そこまで断言しなくてもとは思いますが。。(笑)

 「知識」「知」の歴史とは、曖昧な部分を「型」に嵌め込んで、ある1つの「思想」を確定する作業なのかもしれません。だから、何百回、何千回、何万回も同じベクトルで語られると、なんとなく、ある1つの『常識』が形成されるのかもしれません。

 でも、これは、ひょっとすると、とても危険なことなのかもしれません。「真実」「真理」が捻じ曲げられてしまうことがあるかもしれないからです。

 まあ、とりあえず、コーンフォードに反論しておくと、

1. 「ソクラテス」を分岐点として、哲学が「自然の研究」→「人間の生の研究」に「方向転換した」という歴史観は誤りではないでしょうか。コーンフォードの、この視点は、「進歩史観に毒されている」と言っても過言ではないかもしれません。

2. 「人格的倫理的主体としての魂の発見と希求切望の精神を核とする哲学の成立・展開」の手柄を「ソクラテス」≑プラトンのみに帰するのは誤りではないでしょうか。

3. 「普遍的な思想の地平」と迄断言できる程の「成果」を「ソクラテスという天才」ひとりが達成した・・のでは決してありません。強いて言うならば、「自然の研究」の始端であり「哲学」の始端である「タレス」にこそ、この、ある種宗教的と言うか狂信的な程の賞賛の言葉「普遍的な思想の地平を開いた」は与えられるべきです。

 「AI」 は「パラダイムシフト」か????

 木に竹を接ぐようですが、視点を超現代的な問題点・近未来的な視点に置いてみましょう。

 「AI」が、最近流行のようです。

 「パラダイムシフト」という言葉も、手垢に塗れてしまった感があります。嘗て、「水俣・川崎・新潟・カネミ」(「ん?」と思われた方は、各単語に「公害」と付けて是非ネット検索してみてください)時代に「エコ」という言葉が光輝いて登場し、新鮮だったのが「マネーになる!」と気付いた「ビジネス」にすっかり「利用」し尽くされ手垢に塗れてしまったのを想起しますし、「自然エネルギ」という「作られた流行」によって「自然」という言葉も、すっかり「反自然」的「都市型文化社会」が「汚染」し尽くしてしまった感があります。

 「言葉」というのは、その「使用」によって概念が規定されていくというか、「型」に嵌め込まれていくという側面があり、ソシュールを引き合いに出す迄もなく、「言語の恣意性」故仕方ないことなのでしょうが、そこ(「其処」あるいは「底」)に、ある種の明確な「意図」がある場合には注意しないと、とりかえしのつかないことになりかねません。最初に此の言葉を使った「科学史家トーマス・クーン」もびっくり仰天するかもしれません。だからと言って、「言葉の使い方が間違っている」と目くじらを立てる程ピュアではありませんが、私。閑話休題。

 「科学史」という「歴史」の視点から過去の自然科学を鳥瞰して、人類史的転換を果たしたポイントを「科学史家トーマス・クーン」は「パラダイムシフト」と呼んだのであり、現代進行形の科学技術を「パラダイムシフト」と呼ぶのは早計に失するというものです。しかも、未だ「海のもの」とも「山のもの」とも判断が着かないものを。とは言うものの、私自身、そういう言葉の使い方をしたことがありますので、反省しなければなりませんが。

 私自身は、基本的には、故ホーキングと同様に「反AI」ですが、現実の「AIテクノロジー」以上というか、「ロボット/アンドロイドテクノロジー」の技術概念とも区別されず、時には意図的に混同して実際以上に先取りした、つまり空想的SF的情報を、「AI」と言う、恰もサイエンステクノロジー最先端であるかの如き言葉で発信している感があります。ある種「狂信的」様相も呈しています。勿論、未来発展形について警戒するのは当然ですし、故ホーキングもそうでしたが、前述のように、そこ(「其処」あるいは「底」)に、ある種の明確な「意図」がある場合には注意しないと、とりかえしのつかないことになるのを危惧いたします。

 他の尖端テクノロジー、例えば、遺伝子操作、iPS細胞「操作」、臓器移植、マイクロマシン、量子コンピュータ、「核」技術(現実化して人類にカタストロフィ的脅威を与え続けている)を含む量子力学的各テクノロジー、宇宙テクノロジー等と同様に、「経済」「資本」「変質した/裏切られたイデオロギー体制」の魔の手「メフィストフェレス」がピュアな科学者「ファウスト博士」たちを「悪魔の手先」と化してしまう。エコノミー=ミリタリーであり、結局は、故ホーキングの危惧は現実化することでしょう。機械が人間を文字通り「機械的に」殺戮する時が必ず来るでしょう。エコノミー=ミリタリーなのですから。その「エコノミー」が前述の尖端テクノロジーも含めてせっせと開発・生産・量産せんとしつつあるのですから。

 話を「ソクラテス以前以後」に戻します。

 「ソクラテス以前以後」で、確かに何かが変わったのでしょう。と言うか、その「転換点」に注目して饒舌な秀才「アリストテレス」を最大限利用しつつ、「近代」は、「ヨーロッパ近代合理主義」は誕生したのでしょう。その成れの果てである、「AI」を含む前述の尖端テクノロジーを頂点とする「進歩」だと仮定すれば、この著作でのコーンフォードの「視点」は正しいのかもしれません。でも、これは再度繰返しますが、「進歩史観」の誤謬です。「物語」としては面白いのかもしれませんが、「型」に無理やり嵌めようとする行為に過ぎません。

 控え目に言っても、「人格的倫理的主体としての魂の発見と希求切望の精神を核とする哲学の成立・展開」は、決して「ソクラテス」という、プラトンが顕在化した「現象」故ではなく、「ソクラテス以前」から、哲学の誕生の時から事実上始まっていたのです。まぁ、象徴的に言えば、「タレス」から始まっていたのです。寧ろ、当然「自然」の中の存在である「人間」の「自然」内での「希求切望」を、「自然」からの視点を「人格的倫理的主体」という「視点」にシフトさせたという点では、「ソクラテス」を「ギリシア本来の哲学的精神の堕落」と断言するニーチェの視点に私も組しますが。「ソクラテス」という「現象」も、或意味、「アテネ」という「反自然」的「都市型文化社会」の産物なのかもしれません。私たちは、ドラマチックな現代・近未来のサイエンス・テクノロジーの「成果」に良きにつけ悪しきにつけ目を奪われるのではなく、「ソクラテス」自身が言っているように、「基本的前提こそを再吟味」しなくてはならないのではないでしょうか。「汝自身を知れ」とは、プラトンが、ソクラテスをだしにして有名にした「デルポイ」の神託だけど、19世紀末のアイルランドのアイロニスト、オスカー・ワイルド(Oscar Fingal O'Flahertie Wills Wilde)によると、「軽薄な者だけが自らを知る。(Only the shallow know themselves.)」そうです。「知」の意味を再吟味しなくてはならないのではないでしょうか、未だ「軽薄な」人類は。

 上述の議論のように、「常識」と化している知のパターンに対して異議を唱えること、正に、このことこそ真の「パラダイムシフト」なのではないでしょうか。ニーチェの視点のように(此処にも、巨大なアイロニーがあります・・d(^-^)ネ!)。

(続) 「行々として円寂に至り 去々として原初に入る」

最近お気に入りの言葉があります。毎朝の勤行で、何となく気になってしまって・・・。

「真言は不思議なり

 観誦すれば無明除く

 一字に千理を含み

 即身に法如を證す

 行々として円寂に至り

 去々として原初に入る

 三界は客舎の如し

 一心は是本居なり」

  『般若心経秘鍵』入唐沙門空海上表

 空海の「般若心経」読解についての頌偈(詩)でしょうか。

 「真言」つまり、マントラの力、ひいては「言の葉の力」を言っているのでしょうが、此処で、特に引っかかる(気に入っている)のは、

1 「行々として円寂に至り (行行至円寂)」

2 「去々として原初に入る (去去入原初)」

の個所です。

真言宗の正統な読み方・解釈というのがあるのでしょうが、私は、このように解釈します。

1 日常生活全体の瞬間瞬間の行いの結果として『円寂』に至りつつ

2 日常生活全体の瞬間瞬間の行いの繰返しの中で全てを「捨棄」し果てた結果として『原初』に戻る(帰元する)

 『円寂』は、サンスクリット語の般若心経 " Prajñā-pāramitā-hṛdaya " を嘗て訳した時に(般若心経はサンスクリット語で読んでこそと思います)、日本語訳「三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。」の個所でしょうか(直訳=過去・現在・未来の三世の諸々の仏陀たちは完全なる究極叡智に依拠して、これ以上なく正しく完全に覚醒した完成の方向を悟る)(私訳・・過去・現在・未来の覚醒した者たちは円き(まろき)真理に拠りて円融/完全球体/eukuklou sphaires.(Parmenides)の高みに上昇する)と私訳した個所があるのですが、この「円融/完全球体/eukuklou sphaires.(Parmenides)」と解釈しました。つまり、パルメニデスの用語を想起しました。

 『原初』は、「根拠」、つまり、古代ギリシア哲学の、特に「ソクラテス以前」のキーワードである『arche』アルケーと解釈しました。

 前回ブログとの関連で言うと、少なくとも私にとって大事なのは、日常生活・時・時代・歴史の「現象」の「流れ」、その流れに翻弄されるのではなく、その「現象」の「流れ」の始端・始元・根拠・理由にこそ関心があるのです。

 因みに「三界は客舎の如し 一心は是本居なり」を私訳すると、「過去世・現世・来世(過去・現在・

未来)は仮の宿のようなもの 「一」の「心」こそが本来の居場所である」でしょうか。此処で、「一」は、"to hen"、ソクラテス以前のパルメニデスの「一」であると解釈します。

 このことからも、「人格的倫理的主体としての魂の発見と希求切望の精神を核とする哲学の成立・展開」は、ソクラテスの専売特許ではないことが明白です。

 牽強附会(こじつけ)と思いますか? 


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