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與謝野晶子「みだれ髪」プロジェクト始動


プロローグ

 與謝野晶子との出遭いは、中学一年の時だった。偶然、廊下で拾ったプリントが、文芸部の人が落としたものだった。有名な「君死にたもふことなかれ」と「みだれ髪」の一部がプリントされていた。なにげか惹かれた。担任が国語の先生で文芸部の顧問だった。授業中「與謝野晶子、知ってるひと居る?」と言われ、手を挙げた。先生は、「村上くんらしいね」と喜んでくれた。小学校の頃から勉強はあまり好きではなかったが、国語だけはいつも良かった。大学入試が嫌で、工業高専に進学した。入試の重圧がないので、理系なのに、「源氏物語」や「和泉式部日記」「更級日記」とか読みまくった。

中学の頃、ヤスパースとラッセルを読み、何故かギリシア哲学に惹かれ、パルメニデスと出遭った。

 工業高専で、当時未だ誰もやってなかった「電子計算機」を専攻し、「パルス回路」と取り組み、機械→人間→AI(人工知能)と関心領域が進化し、入試嫌いだったのに、結局、高専での「電子計算機」専攻の利点を生かし、大企業の電算室で夜間にシステムオペレータの仕事をしながら、昼間、大学の哲学科に通った。分析哲学に取り組み、ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考」をドイツ語で徹底的に読み込んだが、深層には「パルメニデス」が佇立していた。大学院に進学したとしても、古典ギリシア語の方言の問題で、精々アリストテレス/プラトンまでしか専攻できず、パルメニデスを読み込んでいくことは事実上不可能だった。

 結局、テクノロジーの独和翻訳者となった。科学・工学は、リニアに進化していくのではなく、時にはパルス状に跳躍的に革新的に進化することがあり、そんなパラダイムシフトに立ち会えたのは幸いだった。シンボリックに言うと、「電子計算機」から「AI」への跳躍というパラダイムシフトだった。独和翻訳者の仕事を選択したのだが、コンピュータ業界という選択も十二分にあった。しかし、前者でよかった。距離を置きつつ、人間の知の進化の現場にリアルに立ち会えたのだから。

 パルメニデスは、いつも私の深い場で燻っていた。西洋合理主義の成れの果てに今のAIテクノロジがあるのだとしたら、その西洋合理主義の基層にパルメニデスが佇立しているのだから当然のことかもしれない。深い霧の向こうにぼーっとしか姿をあらわさないパルメニデス自身がそうであるように、「電子計算機」から「AI」へパラダイムシフトし、インターネットテクノロジ全盛の今、核・原子力技術の負の面が誰の目にも明らかになった今、その基層を流れるロジックが明瞭に見えない。

 與謝野晶子「みだれ髪」になんとなく惹かれ続け、私にとっては、何故か、大好きな椎名林檎ともリンクして愛読書の一つだ。俵万智さんの「チョコレート語訳」を眺めていて、余りにも「軽すぎ」て、「違うんだなぁ」と思うことが何度かあった。そのうち、解釈の初歩的な間違いにも気づくようになった。「~訳」と言うからには、解釈に間違いがあるとしたら『誤訳』と言わざるを得ない。プロの翻訳者としては、気になって仕方ない。毎日一句ずつ、私なりの訳をつけるようになった。その作業を進める過程で、パルメニデスを想起・連想するようになった。ひょっとして、ベースは、基層は、ひとつなのかもしれない・・と、思うようになった。「女」という「性」の「存在」の神秘的な厚みかもしれないし、「性」の実存的重さかもしれないし、「論理」そのものの形而上学的根拠なのかもしれないし、いずれにせよ、與謝野晶子が発する言葉は、パルメニデス的真理に触れている。そう確信するようになった。

 「みだれ髪」を與謝野晶子が発刊した直後、「卑猥だ」「反社会的だ」等批判が続出した。「性」をタブーとする文化土壌故の過剰反応だったのかもしれないし、日帝が押し進める「洗脳」から外れている故の「反社会的」とのレッテルだったのかもしれない。現代も、俵万智訳が出て、更に「與謝野晶子」が曲解されているという気がしてならない。どのような「與謝野晶子」があってもいいとは思うが、最低限、與謝野晶子が使った言葉を正しく解釈した上でないと與謝野晶子に失礼であると思う。

 「みだれ髪」は難しいというのも定評である。その難しさは、與謝野晶子が「源氏物語」や「和泉式部日記」「更級日記」を初めとした古典文学、芭蕉・蕪村・一茶から一葉、露伴、鴎外、島崎藤村など、半端でない読書量だった点、それを前提とした「歌」の集大成が「みだれ髪」であるという点、京都・舞妓・和服・京阪方言等の基本前提を必須とする点、それに、天才にありがちな常識的文法を逸脱した與謝野晶子特有の言葉遣いをしている点にある。その謎を解く鍵は、與謝野晶子に成りきって声に出して読むこと、言葉よりも「心」を大事にすること。今インターネットの時代である。引っ掛かった個所は、その付近の言葉や言い回しをインターネットで徹底的に検索してみると、意外にも「源氏物語」の一節に被っていたり、「和泉式部日記」の恋歌や情景だったり、蕪村や藤村にぶち当たったりすることがある。実は、実務翻訳の現場で使っている手法なのである。

 ヴィトゲンシュタインがそうであるように、深過ぎる内容、高すぎる内容は、表現媒体である「言語」の特性にも左右されてしまう故、翻訳不可能であると思う。與謝野晶子の「みだれ髪」も、その点では翻訳不可能であろう。原文でこそ、原文の、声に出した時の音すらも「意味」を含むのだから、原文でこその「みだれ髪」なのである。次善の策として、少なくとも與謝野晶子の言葉は正しく解釈されなければならない。それを意識しながら、それを目標にして訳した。俵万智さんの訳のように、若い女性一般には受けいれられないだろうが、少なくとも先ず、ここから出発して欲しいという、正しく解釈しようとした最低ラインではある。

 第一弾として、「みだれ髪」の、そんな正しい訳、「誤訳」でない訳を提起したい。

 第二弾として、與謝野晶子の、「宇宙」をも貫く真の大きさ・パルメニデスにも通じる「永遠」にも触れた「真理」について論考したい。

2018.01.19


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