好きな写真と写真家 セバスチャン・サルガド(Sebastião Salgado)超越した美
- 大塚巧
- 2017年9月4日
- 読了時間: 3分

2009年の東京都写真美術館でのサルガドの「アフリカ」の展示を見て、酷く感動しました。
フォトジャーナリズムでありながらアートであり、且つ、アートの領域すら超えて、神々しくもある、そんなモノクロの画像に惹かれて、静かに興奮しながらじっくり何回も見て廻リました。涙が出て来ました。心の中で手を合わせてました。
世界的に有名な写真家で、日本でも大変人気があり、沢山の方がいろいろと発言されております。報道写真と芸術写真が共に在るという論調が多いでしょうか。まったく、その通りだと思います。「神の眼を持つ写真家」とまで呼ばれております。
アフリカが大好きです。嘗て、葉山の近代美術館でアフリカのネイティブアートの展示を見た時、ただただ「凄い!」と興奮しました。シンプルな日常道具なのに、超越した美が存在していました。正に「用の美」そのものです。
報道写真で特にアフリカを意識して見ることは、正直言ってあまりなかったのですが、ルワンダ、ソマリア、エチオピア、ケニア、スーダン、エリトリア等の内戦、戦争の報道や、ソマリアへのアメリカの介入と敗退を描いた「ブラックホーク・ダウン」の事件を知るにつけて、正に今の世界情勢の発端にもなったアフリカ各国に世界の縮図を見る思いです。ナチス、カンボジアの大量虐殺を想起する程の悲惨な報道写真も目にして惨憺たる思いにも駆られます。(カンボジアポルポトの「キリングフィールド」には現場にも行きましたが、一枚もシャッタが押せませんでした(T-T)押しませんでした)

サルガドのモノクロは不思議です。そんなアフリカの大量虐殺の写真にも、不謹慎と言われるかもしれませんが、確かにメチャ残虐なシーンなのですが、何か、神々しさが映し出されているのです。ナチスや、カンボジアポルポトの大量虐殺の写真では見たことがなかった類いの「神々しさ」なのです。でも、それが一抹の救いでもあります。ナチス、カンボジアの其れには救いがなく、ただただ人間に対する、社会に対する不信と絶望しかありませんでしたが。

サルガドの「アフリカ」の展示を見ていて思ったのですが、恐らく、サルガドは、心の中で泣きながらシャッタを押したのでは? 泣きながら現像・焼き付けしたのでは? と思うことが何度かありました。サルガドは不信と絶望を超えて、ギリギリの極限状況でシャッタを押したのかもしれません。
今、「北朝鮮」を巡って不安を必要以上に煽るような報道や、意図的な政府のJアラート「危機管理」システムを見ていて、ネットでのヒステリックなツィートを眺めていて、嘗てのルワンダ紛争・虐殺を想起してしまいます。「北朝鮮」に対するアメリカの対応に、嘗てのソマリアへの介入と敗退と、その後の隣国での大量虐殺と今の中東情勢への波及を想起してとても不安になります。
「指導者が利権ばかりを追い求め、国家建設の努力をしない。その結果、経済は機能しなくなり、国民の生活は苦しくなる。権力者への不満が高まる。すると権力者は「敵」をつくり出し、自分への非難をすりかえようとする。90年代のアフリカでもっともよく見られる構図だった。」松本仁一『「道に迷うアフリカ」を写しとったサルガド』(「セバスチャン・サルガド アフリカ」展図録 p134 より引用)
これは、今の日本、今のアメリカそのものではないでしょうか。

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