Writer/CollieryMiikeEx
- parmenides475
- 2020年10月23日
- 読了時間: 3分
Mitsui Miike Disaster
The Mitsui Miike disaster was the catastrophic coal dust explosion of a Mikawa-Colliery in Fukuoka on 3 November 1963. It caused killing 458 and patients of carbon monoxide poisoning 839 miners.
石炭から石油へのエネルギ革命の中、政府&資本は、炭鉱労働者の大合理化(解雇)を強行してきた。強くて原則的な第1組合を潰すべく、資本は、第2(御用)組合を捏ち上げて第1組合を切り崩してきた。第2組合は、スト破りで敵対してきたり、ピケを張る第1組合に対して暴力で対抗してきたりした。
その中で、第1組合員が殺されたり、両組合が角材で殴りあったりした(ゲバ棒の始まり)。全国から労働者が大牟田に結集して、「総労働対総資本」の対立の場と化し、「革命前夜」とまで呼ばれた。
結局、第1組合は、政府・資本一体の巨大な力に圧倒されて『組織的判断』をして(評価が分かれるところでしょうが)資本の「合理化案」を認めて、多くの第1組合員が職場から去った。
大合理化が強行され、大幅に人員が減らされ、第2組合員の労働強化・「生産第一・安全軽視」は必至だった。
そんな状況で、1963年11月9日、三井三池炭坑三川鉱の炭塵爆発事故が起こった。
死者458人、一酸化炭素中毒症の被災労働者が839人。
文字通り職場を「死守」した第2組合員だったが・・。
「去るも地獄、残るも地獄」と言われた。(ここまでが概要)
三池炭坑万田鉱炭鉱住宅(炭住)で幼児期を育ちました。
赤い鉢巻きと赤旗の波とアジ演説とインターと労働歌を子守歌にして。
炭住内で毎日行われる三池主婦会のデモ(半強制のデモにイヤイヤ参加していた)に母に連れられて行き。。
そんな、活気がありすぎた社会環境の裏で、たくさんの人間の悲喜劇・別の地獄が繰り広げられていました。
余りにも強烈過ぎて、実は、2歳頃の記憶までもが断片的に鮮明に気温・湿度・空気感までもが残っている程なのです。
死線を彷徨うことも、ある不思議なことも、今なら「PTSD」と診断される程の悲劇・惨劇にも遭遇しました(地獄を見ました)。
事実は小説よりも奇なりと言いますが、2-5歳頃の、一番肝心な時期にかなり特異な人生を送りました。
実は、ずっと封印していたのです。
自分が熊本生まれであること、福岡県大牟田市で幼児期を育ったこと、方言、2-5歳の記憶全てを、他者に知られてはいけない、何か恥ずかしいことのように感じていました。
つい最近です。
ひょっとして、自分のライフワークに関係しているのかも・・そのために、なにかに生かされているのでは・・と思い至ったのは。
なにか、やり残しているしごとがあるんじゃないかと。
そんな記憶の欠片を文章にしようとしているのですが、
登場人物は家族父母親戚でもあり、
まだ燻ってもいるので(当事者で生存している方もいらっしゃいますしCO中毒症後遺症で植物人間状態の方も)、
なかなか筆が進みません。
方針を変更して、「小説」ではない形式にしようかとも思ってます。
詩や歌、韻文でもいいし、IT技術の進化もあり、センテンスに拘ることもないかも・視覚情報とか音とかでもいいのでは・・とも思いますし・・そんな暗中模索・試行錯誤の過程です。
いずれにせよ、人生の残り時間は僅か。やるべきことをやらなくては。
写真 三井三池炭坑万田社宅 1955頃

( 10.23) 2020
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