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Writer/CollieryMiikeEx

Mitsui Miike Disaster

The Mitsui Miike disaster was the catastrophic coal dust explosion of a Mikawa-Colliery in Fukuoka on 3 November 1963. It caused killing 458 and patients of carbon monoxide poisoning 839 miners.


石炭から石油へのエネルギ革命の中、政府&資本は、炭鉱労働者の大合理化(解雇)を強行してきた。強くて原則的な第1組合を潰すべく、資本は、第2(御用)組合を捏ち上げて第1組合を切り崩してきた。第2組合は、スト破りで敵対してきたり、ピケを張る第1組合に対して暴力で対抗してきたりした。

その中で、第1組合員が殺されたり、両組合が角材で殴りあったりした(ゲバ棒の始まり)。全国から労働者が大牟田に結集して、「総労働対総資本」の対立の場と化し、「革命前夜」とまで呼ばれた。

結局、第1組合は、政府・資本一体の巨大な力に圧倒されて『組織的判断』をして(評価が分かれるところでしょうが)資本の「合理化案」を認めて、多くの第1組合員が職場から去った。


大合理化が強行され、大幅に人員が減らされ、第2組合員の労働強化・「生産第一・安全軽視」は必至だった。


そんな状況で、1963年11月9日、三井三池炭坑三川鉱の炭塵爆発事故が起こった。

死者458人、一酸化炭素中毒症の被災労働者が839人。

文字通り職場を「死守」した第2組合員だったが・・。

「去るも地獄、残るも地獄」と言われた。(ここまでが概要)


三池炭坑万田鉱炭鉱住宅(炭住)で幼児期を育ちました。

赤い鉢巻きと赤旗の波とアジ演説とインターと労働歌を子守歌にして。

炭住内で毎日行われる三池主婦会のデモ(半強制のデモにイヤイヤ参加していた)に母に連れられて行き。。

そんな、活気がありすぎた社会環境の裏で、たくさんの人間の悲喜劇・別の地獄が繰り広げられていました。


余りにも強烈過ぎて、実は、2歳頃の記憶までもが断片的に鮮明に気温・湿度・空気感までもが残っている程なのです。

死線を彷徨うことも、ある不思議なことも、今なら「PTSD」と診断される程の悲劇・惨劇にも遭遇しました(地獄を見ました)。

事実は小説よりも奇なりと言いますが、2-5歳頃の、一番肝心な時期にかなり特異な人生を送りました。


実は、ずっと封印していたのです。

自分が熊本生まれであること、福岡県大牟田市で幼児期を育ったこと、方言、2-5歳の記憶全てを、他者に知られてはいけない、何か恥ずかしいことのように感じていました。


つい最近です。

ひょっとして、自分のライフワークに関係しているのかも・・そのために、なにかに生かされているのでは・・と思い至ったのは。

なにか、やり残しているしごとがあるんじゃないかと。


そんな記憶の欠片を文章にしようとしているのですが、

登場人物は家族父母親戚でもあり、

まだ燻ってもいるので(当事者で生存している方もいらっしゃいますしCO中毒症後遺症で植物人間状態の方も)、

なかなか筆が進みません。


方針を変更して、「小説」ではない形式にしようかとも思ってます。

詩や歌、韻文でもいいし、IT技術の進化もあり、センテンスに拘ることもないかも・視覚情報とか音とかでもいいのでは・・とも思いますし・・そんな暗中模索・試行錯誤の過程です。

いずれにせよ、人生の残り時間は僅か。やるべきことをやらなくては。


           写真  三井三池炭坑万田社宅 1955頃


( 10.23) 2020


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