好きな写真と写真家 MAN RAY 1890-1976 「Unconcerned But Not Indifferent」「関わりをもたず、だが無関心ではなく」・・オシャレでエレガント
- 大塚巧
- 2017年9月15日
- 読了時間: 5分

2002年Bunkamura 「マン・レイ写真展」カタログ冒頭の木島俊介氏の「マン・レイ 自由と快楽」が面白いです。特に、木島氏の小見出しや文中の言葉遣いが私好みで好きです。但し、以下は、木島氏の論文の要約ではなく、其れに触発された私の意見とご理解ください。

「わたしの行うすべてのことのなかには、ふたつのテーマがあったし、今でもある。自由と快楽である。」(マン・レイ)・・この言葉から分かるように、MR (Man Ray) は、「写真家」というか「アーチスト」と呼んだ方が相応しいのでしょう。「写真はアートか」という問いの有効性は分かりませんが、少なくともMRは、ジャーナリズムとは無縁の「写真家」なのでしょう。それは、とても、私好みです。
「セルフ・ポートレイト」・・そういった「アーチスト」の常として、「自己」への拘り、「自己」の探求として、写真を道具としての「セルフ・ポートレイト」の作品がMRにあります。私は、他者の写真は撮りますが、自分が撮られるのが大嫌いです。HP/Blog 等で「自己」の探求は続けているので、写真でもやってみようかと思いました。

「a l envers」「裏返しにされた」「反転された」・・「写真機という機械は・・物質的な表層を再現する領域をはるかに超えて何か別のものを、あるいは「反転された」世界を表現する可能性を擁することが明確に理解された」木島俊介 p23 同カタログ・・面白い指摘です。「絵画」でなく、絵画→「写真」という新しい道具を人類が手に入れたこと自体、革命的なパラダイムシフトであると既に書きましたが(「森山大道」の個所参照)、本当は、私達人類が、未だ未だ気付いていない「写真」という『革命』があるのかもしれません。反物質、反陽子、反電子、反中性子等を想起するのは的外れでしょうか。

「機械とエロティスム」・・「事物の、現象の、此岸と彼岸とを反転させるこの境界域・・写真機という機械は、レンズというガラスと感光銀板というガラス(後にはフィルム)を備えることにおいて一層複雑な境界域を形成する・・この境界域は、マン・レイ自身と一体化して存在する・・機械は、マン・レイとともに在って、其れ故にむしろ、タナトスよりもエロスに奉仕する・・創生(エロス)の予兆・・写真という境界域の擁する魔術的な呪術のオーラを授与されてアートに還元され、無数のレプリカのかたちで世界に知られる」木島俊介 p24-25 同カタログ・・L.Wittgenstein を想起させる、私好みの記述です。人は皆、無意識のうちにも、自己の根拠を探求とまではいかなくとも、気に掛けているのではないでしょうか。「写真」という物質を生成する「写真機」という道具が、こんなにも人類に普及し、其のテクニカルな進歩が眼を見張るばかりであることの人類史的な根拠は、此処にあるのかもしれません。「カメラ」という『魔術的な呪術』を霊能者でなくとも手軽に実現してくれるのです。能力的に特殊な人間、天才にしかなしえなかったことが誰でもできるようになるのですから、其れは人類の大進歩なのでしょう。砂を噛むような殺伐とした世界よりも色艶のあるエロティスム世界の方が好ましいでしょうし。其の幻影を「カメラ」は実現させてくれるのですから。

「暗室の詩人」・・「写真機という魔法の境界域を持つと同時に、暗室という魔法の境界域の双方を手にしていた・・この二つの暗闇のなかで起ることは写真家の秘密の領分に属する」(木島俊介 p25-27 同カタログ)・・デジタルが、此の「暗室」という「魔法の境界域」から人類を「解放」した・・のではなく、「双方」の、2つの「魔法の境界域」の片方を奪ったのだと思います。「写真機」と「暗室」という本来不可分の対である「魔法の境界域」を無理やり引き離してしまったのではないでしょうか。本来「光」と「影」、「光と闇」の産物なのに、「影」「闇」を意識しないで済むようにした、否、意識する能力を奪ってしまったのではないでしょうか。人類は、科學・サイエンス・テクノロジーの進歩に伴って「退化」しているのではないでしょうか。奪われたものは奪い返さないと。「両義性のうちに眼差しを遊ばせるマン・レイ」のように、「暗室の詩人」であってこそ。。「写真家の至福の時、快楽の時は、現像液のなかの印画紙に形が現れる過程のなかにある。・・世界の創生に立ち会っていることではないか。」(木島俊介 p25-27 同カタログ)・・まったく同感です。

「反転と変奏」・・「照射される光とは、モノクロームのこの世界では同義的に影である。これら微妙な要素が堂々とした主役に光と影の装飾をまとわせ、表情に生気を与える。変奏曲を奏でさせる。・・それらはまた背景に錯綜した影の深い淵を生んで見る人の精神をひきとる。・・光を記録する写真が、ここにおいて、なにものかに反転する。光がおそらく人間に化すのだ。」「Man 人間」「Ray 光」(木島俊介 p27 同カタログ)・・「光」を「記録」する「写真」イメージが、『其れ』に「反転」する・「光」がおそらく「人間」に化す・・此の文脈で、牛腸茂雄の個所で既述した「自己と他者」の拘り、「自己と他者」のアポリアを解く鍵があるのかもしれません。「Man 人間」「Ray 光」から、此処まで推察するのは越権行為でしょうか。
「関わりをもたず、だが無関心ではなく」(MRの墓碑銘)・・此処にエピキュロス(Epikouros)の箴言「隠れて生きよ」"Lathe biosas"を見るのは牽強付会というものでしょうか。だって、MR自身「わたしの行うすべてのことのなかには、ふたつのテーマがあったし、今でもある。自由と快楽である。」と云っているのですから。

Epikouros
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