top of page

好きな写真と写真家 森山大道 「写真とは一瞬の思考だから・・・見知らぬ言葉の彼方へとつながってゆき・・もう一つの現実を開示して見せること」


「大道を自ら問わず寺籠もり 神仏(ロゴス)の言の葉 何処に在らん」

 此の言葉遊び/ウタは、私が、辺見庸を読んでいて浮かんだものだ。辺見庸は、死刑囚 大道寺将司と交流があった。辺見庸は、大道寺将司が問うた問題(「日帝本国人としての落とし前」)こそに注目し、依然として「大日本帝国」本国人としての日本人全体に「大道」を問うた。

 「大道」とは、「人が行うべき正しい道」のこと。昔は大道が行われていたから仁義など必要でなかったが、後世、その大道が廃れてしまったから、仁や義などの根本の道徳が必要とされるようになったという、儒教の仁義説を非難した老子のことば『大道廃有仁義』を起源とする言葉である。『老子』には、この後に「智慧出でて大偽有り。六親和せずして孝子有り。国家昏乱して忠臣有り(人が知恵を持つようになってから、偽りの社会ができた。兄弟、子孫、妻と不和になってから、孝行する子供が現れた。国が乱れてから、忠臣が現れた)」という言葉が続く。

 其の辺見庸の本に何故か、森山大道の「何かへの旅・3」の「犬の町」が効果的に使われていた。

 「いまここに在ることの恥  問ふ-恥なき国の恥なき時代に、「人」でありつづけることは可能か?」辺見庸/2006.7.15 毎日新聞社。「戦争ハ国家ノ救済法デアル」(ジョン・ドス・パソス)「記憶と沈黙」p182で、辺見庸が引用していた。

 辺見庸の問題提起について、私も何かを述べようかと思ったが、非寛容時代の今のネット環境から判断して余りにも「過激」になりそうだったので、直接述べるのは止めて、此の言葉遊びだけをネットにもアップした。「大道寺」(将司)と「大道」(森山大道と老子の「大道」)を意識した。

 「世界で起きることはすべて自分に責任がある」ということを「マイケル・ケンナ」について述べた時に書いた。

 「写真とは一瞬の思考だから・・・見知らぬ言葉の彼方へとつながってゆき・・もう一つの現実を開示して見せること」と、2003年に開催された大きな写真展「光の狩人 森山大道1965-2003」のカタログ/写真集の冒頭「過去(きのう)と未来(あす)のあいだで」で森山大道が述べている。「写真とは一瞬の思考だから、つねに街区と路上を体験し解読しつつ、目前の外界をカメラという名の複製装置の機能によって、見知らぬ言葉の彼方へとつながってゆき、流れ行く時の水帯に向けて、もう一つの現実を開示して見せることなのだと思う。そしてそのとき、写真による映像は、たんなるイメージやそれを写す写真家の個の領域を越えて、人類の記憶をふくめた世界を指し示す象徴的なサインとなりうるはずである。」というコンテキストである。

 「写真」とは「一瞬の思考」なんだ!・・と、ハッとした。確かに、世界の出来事に刺激されて、脳内で一瞬に判断して、或いは、しっかり判断して、シャッターを押す行為なのだろう。其れは、時には、「条件反射」と呼んでもいいくらいの「一瞬の思考」であることもある。いずれにせよ、此の脳内活動は、「思考」なのであろう。

 そして、其のシャッターを押す行為によって、「見知らぬ言葉の彼方」へとつながると言う。言葉の彼方、言葉を越えた、見知らぬ彼方、と言うことだろうか。「写真」は、「言葉」を超える何かを「示す」ものなのだろう。

 そして、その「何か」は、多かれ少なかれ「もう一つの現実」なのだろう。つまり、「現実」を契機にして、別の「もう一つの現実」をイメージとして「開示して見せる」行為が「写真」なのだろう。

 「世界で起きることはすべて自分に責任がある」・・・「写真」とは「一瞬の思考」であった。つまり、「世界で起きること」について「気付き」且つ「一瞬の思考」を行うのは、「世界」の側ではなく、SELF、つまり、「私」「自己」の側の出来事なのである。そして、「写真」という行為によって、「もう一つの現実を開示して見せること」も当然「世界」の側ではなく、SELF、つまり、「私」「自己」の側の出来事であり、「世界」に対する、「自己」の側からの積極的な働きかけなのである。そして、両者をつなぐのは、「見知らぬ言葉の彼方へとつながってゆき」という「出来事」なのである。

 この「出来事」は、「世界」の側のことだろうか、「自己」の側のことだろうか。おそらく、どちらでもないのだろう。と言うか、「世界」と「私」「自己」の、両者の「根拠」であり、両者に対して上の階層「メタ」レベルに位置している「何か」なのだろう。「写真」というテクノロジーは、其れまでの技術とは違った、ある種「形而上」的な何かに達した行為、パラダイムシフトだったのかもしれない。「世界」と「私」の「形而上」的な「根拠」と関連した・・。

 森山大道の撮る写真からは、そんなことまで思いを至らせてくれる何かが得られる。そして、此の「写真」という「パラダイムシフト」により、人類は、ある種の「自由」を手に入れたように、森山大道の写真には、既製常識とか現実とかから解放された、爽やかな自由があるように感じられる。恰も、物理学から解放された数学のように。


特集記事
最新記事
アーカイブ
タグから検索
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page