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好きな写真集 BRASSAI ブラッサイ 夜のパリ 序 ポール・モーラン/ 飯島耕一訳 みすず書房 1987.12.25


 鴨川市立図書館にありました! 探していた写真集!

 写真集を作るとしたら、こんなのにしたい! そう思う写真集です!

「夜は昼の陰画(ネガ)ではない。夜の表面は暗くなっても、なお白くあることを止めない。実際のところ、昼と夜とは別個の姿をしている。一切は夕方になると、非現実的な遠近法と位相とによって、黄昏の世界へと変貌する。・・・」と続くポール・モーランの文が素敵です。

 撮影者自ら、自ら撮影し纏めた写真集について何かを語る・・詩人でなく、評論者でなく、学芸員でなく、学者でなく・・・あくまでも、撮影者として、撮影者自ら、自ら撮影し纏めた写真集について何かを語る・・・自らも、そうありたい! そう思うのです。映像芸術だから文章は、解説は、論理は不要とは思わない。映像芸術だからこそ、論理を明確にする文章があってこそ・・・そう思う。Instagram とは逆の行為なのだろう。BRASSAIの写真集から、「写真」のイデアを想起させてもらった。

 言外のロゴス・・俳句・短歌と通じる何かかもしれない。語られなかった場にこそに語りたい本質が言表されている・・そう! 写真は俳句・短歌と似ている!そして、初期ギリシア哲学者たちの美しい愛智の詩とも!

 だから、写真に論理が必要とは、写真に「我」「自己」が必要ということではない。むしろ、「我」も「自己」も捨棄し尽くした果てに初めて到達し得る「高み」の「ロゴス」に支えられて初めて、「写真」は「真」「リアル」「実在」を「写」すことができる。そんな「写真」であってこそ。

 32 「その失墜の姿のうちに、何かしら偉大さを見せているこの亡霊じみた女乞食は、夜中に、セーヌの河岸と中央市場に出没している。」BRASSAI

 私達が思い浮かべる「パリ」とはかなり違う。これが現実なのだろう。これこそが「パリ」であり「セーヌ」なのだろう。BRASSAIの高みに達した写真家としてのロゴスが確実なメッセージとして伝わって来る。この現実に「偉大さ」と同時に崇高な美を感じるのは私だけでしょうか。

 35 「中央市場の朝の2時。郊外の野菜畑から来た古い野菜車の運び人が、くたびれ果てて運転席の上でイビキをかいている。彼のカリフラワーや、人参や、蕪の下ろされるのを待ちながら。」BRASSAI

 都市の中の「農」の現実、これも現実なのでしょう。ただ、BRASSAIは、都市の人間である。善し悪しは別として。否、ある意味、都市の人間にこそ、写真は撮れるのかもしれない。カメラは、都市の産物なのだから。

 43 「《宝石》(ビジュー)という綽名どおりの、ボードレールの悪夢から出てきたようなこの70代の娼婦は、モンマルトルのナイトクラブで有名だ。」BRASSAI

 ジョルジュ・ルオーの宗教画の一場面を想起させてくれる。ルオーもブラッサイも、「都市」の賜である宝石で着飾った老娼婦にキリストと同じ視線を向けている。そんな気がします。

 45 「広場から広場へ、きれいに照明された大通りの新聞売りのキオスクが、帰宅の遅くなった通行人に、インタナショナルで色っぽい陳列品を提供している。」BRASSAI

 嘗て、ソウルの街でもよく見かけた風景ですが、先日ソウルに行ったら、この風景が無くなっていました。そう言えば、日本でも見かけなくなりました。無くなってみると、実は、人間的な風景だったんだと気付く。この人間的な風景が無くなるということ。単にスマホに代わられたという話ではなく、人は、何か大切なもの、無くしてはいけない大切なことをいとも簡単に捨て去ってしまっているのかも知れません。

 61 「屑拾いが大急ぎで、まもなく市のゴミ収集人夫がからっぽにするごみ箱を漁る。夜は尽き果てようとしている。」BRASSAI

 手を合わせたくなる写真です。そして、何故だか「ゴメンナサイ」と謝りたくなってしまいます。「夜」は、ほんとうに「尽き果て」るのでしょうか。人間は「人間」という「夜」に何時までも居続けているのかもしれません。「夜は昼の陰画(ネガ)ではない」のですから。


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