top of page

表現者

  • 大塚巧
  • 2017年7月12日
  • 読了時間: 2分


「歌は歌に候。

まことの心うたはぬ歌に、何のねうちか候べき。

まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころか候べき。」

​與謝野晶子

 文章表現は、所詮、文章表現に過ぎないけど、まことの心を表現しない文章表現に、何の値打ちがあるのだろう。まことの文章表現や詩・俳句・歌・絵画・写真・建築・料理・思想を創らない人に、何の見どころがあるのだろう。

 受け取りようによっては、耳に痛い厳しい言である。しかし、與謝野晶子は、何よりも自分自身に対して箍(たが)を掛けていたのだろう。それ程迄に、真剣に生きていたのだろう。真剣に生きざるを得ない社会・世界情勢だったのだろう。生死に関わる・・・。今と同じである。

「正法は 実践のなかにこそ

生命が宿ることを知れ」

高橋信次

 「大道を自ら問はず 寺籠もり」 大塚巧

 辺見庸を読みながら浮かんだ言葉である。偶然だけど、維摩経にも通じるものがある。出家修行者であるのではなく、在家修行者であるべき・・と思う。寺に籠もっていては世界は分からない。自分自身に対する戒めである。

 いろんなことがあり、自分自身に対して客観的な立場に立とうとしつつ、Vipassana 冥想しつつ、何か、あることを「表現」しないといけないと強く思う。それが自分の使命と自覚する。さすれば、道未だ遠しである。未だ未だお迎えは来ないだろう。未だ、仕事をしていないのだから・・と勝手に考えている。

 集中期間として「大工・建築」でひとつの「表現」を「完了」して、次のステップに向かわんとしている。

 立ち止まること、それが限りなく大切なことは私の此までの人生が証明している。

 立ち止まること

 戦略を練ること

 植木職人の親方は、何時間も施主と茶を飲みつつ世間話をした後、徐に剪定鋏を持つ・・と言う。その世間話の時間は決して無駄ではない。寧ろ、その時間こそ、親方の仕事の全てなのかもしれない。そう思う。



Comments


特集記事
最新記事
アーカイブ
タグから検索
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page