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ひとりのにんげんとして

  • 大塚巧
  • 2017年7月15日
  • 読了時間: 2分

 與謝野晶子は言う。「まことの歌や文や作らぬ人に、何の見どころか候べき。」

 しかし、與謝野晶子は所謂「専門家」として「まことの歌や文」を作っていたのではない。鳳志ようを「與謝野晶子」にした必要条件は、與謝野晶子が「ひとりの人間」「全的人間」として生きていたからである。自らの生を掛けてひと(他者)を愛し切った、その過程で歌という表現が誕生した。

 「専門家」として生きられない人間って居ると思う。例えば、宮沢賢治。例えば、私も。

 「常識」というのは強い力を持っている。「専門家は素晴らしい」「専門家は間違えない」という常識は、絶対的とも言える力を持っている。「専門家」の前に、非「専門家」は、自ら問ふことを、自ら検証することを、自ら疑うことを、いとも簡単に放棄し、いとも簡単に判断停止し

宮沢賢治

て止まない。

 その特質を熟知して、逆に活用せんとする者がいる。資本であり、政治であり、近代というシステムである。原発然り、自然科学特に先端テクノロジー(例えば、AI、ロボット、医療、量子力学、等)然り。

 この世界的システム、「常識」と化したシステムに抗うことは絶望的なことだろう。表現の世界、アートの世界でも同様の状況であろう。

 私は、特定の「表現」ではなく、正に、このような状況自体に抗うことを『表現』することが使命なのだろう。自分自身の生を鳥瞰した時、そう思う。このような「常識」と化した「専門家」「分業」のシステムに対して異議申し立てすること。だから自分自身にレッテルは貼らない。

 ひとりのにんげんとして生きればそれでいい。ひとりのにんげんとして、全的な立ち位置から表現していく。

 AI(Artificial Intelligence) の進歩が著しい。人類レベルのパラダイムシフトだろう。人間の脳・人間の能力は、AI に淘汰され続けていく。しかし、私の意味で、パルメニデス的全体・ひとつ・一を果たしてAIは取り込むことができないだろう。

 否、論理的には反論できないから問いを立てるしか仕様が無い。

AI は、「全体」「全て」パルメニデス的「一」を捉えることができるか?


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