top of page

日常生活24時間すべて

  • 大塚巧
  • 2017年7月17日
  • 読了時間: 3分

Vipassana Meditaion の徒・途であってこそ

 所謂一般的意味で「専門家」「professional」「specialist」或いはVipassana Meditaion の徒であるためには、日常生活24時間すべてを捧げなくてはならない。「写真家」は、日常生活24時間すべてが『写真家』でなくてはならない。「大工」は、日常生活24時間すべてが『大工』でなくてはならない。「染織家」は、日常生活24時間すべてが『染織家』でなくてはならない。「料理人」は、日常生活24時間すべてが『料理人』でなくてはならない。「哲学者」は、日常生活24時間すべてが『哲学者』でなくてはならない。「仏教徒」は、日常生活24時間すべてが『仏教徒』でなくてはならない。「Vipassana Meditaion の徒」は、日常生活24時間すべてが『Vipassana Meditaion の徒』でなくてはならない。

 それでは、パルメニデス的全体・ひとつ・一を体現為べく切磋琢磨している「Parmenides Holistker」は、如何すれば24時間「Parmenides Holistker」であるのか。日常生活24時間すべてが『写真家』であると同時に、日常生活24時間すべてが『大工』であると同時に、日常生活24時間すべてが『染織家』であると同時に、日常生活24時間すべてが『料理人』であると同時に、日常生活24時間すべてが『哲学者』あると同時に、日常生活24時間すべてが『仏教徒』であると同時に、日常生活24時間すべてが『Vipassana Meditaion の徒』であることは不可能である。

 しかし、その不可能をやろうとするのが「Parmenides Holistker」なのかもしれない。と言うか、「Parmenides Holistker」は、「写真家」でなく、「大工」でなく、「染織家」でなく、「料理人」でなく、「哲学者」でなく、「仏教徒」でなく、「Vipassana Meditaion の徒」でもなく、開くまでも、「Parmenides Holistker」である。「Parmenides Holistker」として、『写真家』であると同時に『大工』であると同時に『染織家』であると同時に『料理人』であると同時に『哲学者』であると同時に『仏教徒』であると同時に『Vipassana Meditaion の徒』である。

 例えば、Vipassana Meditaionで、身体の頭部から爪先まで、爪先から頭部まで、CTスキャナーのように意識を移動させるトレーニングがあり、そのトレーニングも最終的には一瞬にして身体全体を意識する。そのトレーニングに近いが、更に「レイヤー」構造で類推できるかもしれない。核に「Parmenides Holistker」があり、その外周を円環状に『写真家』『大工』『染織家』『料理人』『哲学者』『仏教徒』『Vipassana Meditaion の徒』が囲んでいる。(この分析的項目は、あくまでも例示にすぎない。)そんなイメージを持って、全体の球を一瞬に「観る(気付く=Vipassana)」。

 気付き(Vipassana)と創造性は、視覚野でのパターン認識による局所からグローバルへの統合と、前帯状皮質(ACC/ Anterior Chingulate Cortex)からのAlarmと背外側前頭前皮質(Dorsolateral Prefrontal Cortex)の司令塔との共働で、脳全体の活動で生じる現象であり、視覚野のパターン認識、つまり、視覚関連故、根源的には光から惹起するホリスティックな現象として気付きと創造性は成立し、つまり、気付きと創造性とは、無から有が生まれるのではなく、創造性の素材はこの側頭連合野に蓄えられており、側頭連合野に蓄えられているさまざまな記憶が結びついて前頭葉に引き出されることで創造性が生み出される。(This Blog is Vipassana through Debriefing for Dorsolateral Prefrontal Cortex.)

 つまり、「Parmenides Holistker」の徒・途は、文字通り「全体」を『全体』として体験する・実践することである。

Parmenides


Comments


特集記事
最新記事
アーカイブ
タグから検索
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page