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「いまここに在る」~カタストロフ/パラダイムシフトを生きる~

  • 大塚巧
  • 2017年7月23日
  • 読了時間: 2分

辺見庸

「いまここに在ることの恥(問ふ-恥なき国の恥なき時代に、「人」でありつづけることは可能か?)」辺見庸(2006.7.15 毎日新聞社)

 今、地球規模で気候変動のカタストロフの時代である。

 今、世界規模で政治経済のカオス化カタストロフの時代である。

 今、地球生物レベルで遺伝子のカタストロフ/パラダイムシフトの時代である。

 今、人類規模でサイエンステクノロジーのパラダイムシフトの時代である。

 それらは相互に無関係ではなく、密接に相互連関している。

 「いまここに在る」ということは、このようなカタストロフ/パラダイムシフトを生きるということである。

 「いまここに在ることの恥」「恥なき国の恥なき時代に、「人」でありつづけることは可能か?」(辺見庸)・・ジャーナリストに此処まで言わせる時代なのである。

 こんなカタストロフ/パラダイムシフトの時代に、自己に特定「専門家」のレッテルを貼って、カタストロフ/パラダイムシフトに全く無関心というのは、余りにも「人間」として大道(人の人たる道)の欠片も微塵もない生き方であり、ひととして余りにも寂しい。それが通じてしまう程、「専門家」「分業化」のモナド的状況が蔓延・「常識化」しているのが今という時代なのかもしれない。情報の洪水の中で、種々多様なエピソードの1つでしかなくなっているのだろう。マスコミ、インターネットの責任は重大だろう。「近代」の最大の罪。否「国家」が持つ本質的特性の罪。

 カタストロフ/パラダイムシフトへの関心は、自らの「専門」と同列の選択肢の1つなんかでは決してあり得ない。そんな「専門」も成立させている「日常生活」こそがいちばん大切なのである。実際に、「専門」を成立させている基本前提なのである。基本的前提を問わないこと・・それも「近代」の産物なのかもしれない。その基本的前提である「日常生活」を根本的に危機に陥れているのが他でもないカタストロフ/パラダイムシフトなのである。

 「Parmenides Holistker」の徒・途は、文字通り「全体」を『全体』として体験する・実践することである。従って、「Parmenides Holistker」の徒・途は、地球規模での気候変動のカタストロフ、世界規模での政治経済のカオス化カタストロフ、地球生物レベルでの遺伝子のカタストロフ/パラダイムシフト、人類規模でのサイエンステクノロジーのパラダイムシフトの根拠を探究する「反近代」の徒・途である。


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