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常に理性が大切! 常に論理が大切!

  • 大塚巧
  • 2017年7月24日
  • 読了時間: 3分

" Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen." Ludwig Josef Johann Wittgenstein

「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」

 カタストロフ/パラダイムシフトの時代だからこそ、常に理性が大切であり、常に論理が大切である!

 言語の限界は在る。「沈黙せねばならない」言語の限界の彼方も在る。「沈黙せねばならない」『場』は、存在しないのではない。あくまでも「語りえないこと」なのである。「語りえないこと」を七転八倒して語ろうとしたひとりがParmenides かもしれない。Parmenides は、それをあくまでも「論理」そのものとして「語った」。実は、Wittgenstein も「語りえないことについて」あくまでも「論理」そのものとして「語った」。その点で、Parmenides もWittgenstein も同列にある。Wittgenstein にとって、「沈黙せねばならない」とは、言語としてであり、メタ言語としては決して「沈黙」していない。Parmenides は、その「語りえないこと」について『詩』として「語った」。Parmenides の時代には明確にされていなかった言語使用なのであろうが、現代の我々は「メタ」という『論理』を、「メタ」という言語使用の道具を手にしている。

 今、カタストロフ/パラダイムシフトの時代に論理・理性よりも情緒的な言語、パトス的な言語使用が多用されている。「専門家」「分業化」の大勢の中で、判断停止し、情緒的に感覚的に「分かった」気になって恰も「論理」を語っているかの如く「確信」しているのが現代の人間なのかもしれない。「専門家」の言う『常識』に基づいて、自ら検証せず、自ら判断することを放棄して、なんとなく「気分」で、「専門家」という他者の言葉を恰も自らの言葉であるかの如く声高に叫ぶ。ネット社会がそれに輪を掛けている。

 今此の時代、真実も非真実・フェイクも同列に「検索」できるのがネット社会である。だからこそ、真実を見る・観る眼が何よりも大切である。とても難しいことかもしれない。しかし、此の一線を蔑ろにしてはいけない。此の一線を蔑ろにさせることこそ、今此のカタストロフ/パラダイムシフトの現代を意図的に現実化した者の意図に添うことになるからである。

 再度強調しよう。「真実を見る・観る眼が何よりも大切である。とても難しいことかもしれない。」短絡的に「では、お前はどうしろと言うのか? 」と問ふてはいけない。自ら検証せず、自ら判断することを放棄して、なんとなく「気分」で、他者の言葉を期待してはいけない・他者を試してはいけない。大事なのは、貴方自身の「論理」なのであるから。真実を見よう・観ようとする行為そのものが、「真実を見る・観る」ことの必要条件なのである。だから、我々は「真実を見よう」「真実を観よう」と努力し続けなければならない。その七転八倒の痕跡こそがWittgensteinであり、Parmenidesなのだと思う。

 つまり、常に理性が大切! 常に論理が大切!

 どんなに、情に、痛い程訴えてくる問題であっても、感情に流されてはいけない、常に理性的であるべきである。常に論理を大切にすべきである。そのことをParmenidesも、Wittgensteinも教えてくれる。今此のカタストロフ/パラダイムシフトの現代だからこそ、常に理性的であること、常に論理を大切にすることが大事である。情に依拠する藝術も詩歌も、そうであるからこそ尚のこと、常に理性的であること、常に論理を大切にすることが大事である。


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