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Sokrates「死の練習」としての"Philo-sophia" あるいは「死」の覚悟

  • 大塚巧
  • 2017年8月1日
  • 読了時間: 1分

 「生」は、他でもない自分自身の真の「自己」、つまり、自己の本質、自己の精神の深層、心の探求の途なのであろう。

 其の「心」を通じてのみ、時間を超越したもの、宇宙、宇宙を超越したものにリンケージ為うる。だから、"Philo-sophia"は、「死の練習」Sokrates である。

 カタストロフ/パラダイムシフトに直面している現代に生きざるを得ない私たちは、文字通り、嫌でも、"Philo-sophia"と無縁の者ですら、現実的に自らの生物的「死」に直面しつつ生きている。其れすら自覚しない程判断停止しつつ生きている。少なくともVipassana の途・徒は、自覚しつつ生きたい・自覚しつつ逝きたい。

 Parmenides Holistikの人でありたいから、何よりも先ず自らの「死」を常に自覚しつつ、自らの「死」の点から今を見たい・観たい。「今」しかないのなら「死」すら「今」に内包されている筈である。常に「死」の「零点」から自らを省みたい。

 時間は貴重である。

「低いバイブレーションにはなるべく意識を向けない」黎明・下・p.154:

日常生活=祈り  そういう生活を送りたい。


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