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母のこと・・「父に逢うては・・」「母に逢うては・・」


1 養鶏農家に生まれ・・

 母 大塚(旧姓)シエ子は、1932年(昭和7年: 満州国建国の年)10月2日、熊本県玉名郡南関町宮尾で養鶏農家の7人兄弟の末っ子として生まれました。3人の兄と3人の姉がいました。一番上の兄とは、歳の差が親子程離れていました。その長兄大塚巧は戦死。学校の先生をしていた2番目の兄大塚義雄から「養子に」という話もあったとのことですが、若くして病死で、それも適いませんでした。

 年頃の女性姉妹4人が住む農家でしたので、近所の若者たちからは熱い視線が向けられていたようです。

 母の初恋の相手は、特攻隊で戦死したとのことでした(母に聞きました)。

 戦争中は、食料を自給している農家故、都市生活者よりも恵まれた環境だったようです。戦後も篤農家の家庭だったようですが、其れ故、朝早くから夜遅く迄働き尽くめの厳しい生活だったようです。若い母は、そんな農家の生活が嫌いでした。

2 逃避のため・・

 父 村上勝徳は、南関町の隣りの熊本県荒尾市の獣医・農家の長男でした。戦時中赴任していた台湾から引き揚げた後、隣りの福岡県大牟田市の三井三池製作所に勤務していました。当時の農家の間では、三井三池炭坑の三井鉱山や、三井三池製作所に勤務する若者はエリートでした。特に、技術職の製作所はそうでした。

(補足 母他界後年金手続きの際に分かったのですが、父は出征前既に三井三池製作所に勤務していました)

 父は、大塚家の長女に好意を持っていました。しかし、其の長女は、既に婚約していました。それで、一番下の母シエ子に求婚しました。当初、母は、派手な服装のオシャレ過ぎる父を毛嫌いしていました。それ以上に、長女の代わりであることに自尊心を傷付けられていたと推察します。しかし、「農家から早く出たかった」「農家には嫁ぎたくなかった」故、父勝徳と結婚しました。母19歳でした。

3 三池争議

 三池炭坑大平社宅、所謂「炭住」の平屋長屋の狭い安普請の掘っ立て小屋で、赤ん坊の私を育てました。隣の居住者とは、薄い板一枚で隔たっただけでしたので、赤ん坊の夜泣きに必要以上に気を遣ったようです。

 当時、実は、大牟田は歴史の舞台でした。今の歴史教育では封印されていますが、日本のエネルギー構造が米国の圧倒的な圧力があって、石炭から石油に変えさせられていく過程で起こった、戦後最大の労働運動、革命前夜とも言われた「三井三池争議」の現場でした。父も、新左翼労働運動活動家の養成所と化していた「向坂学校の優等生」(父自称)だったとのこと。

 原則的に闘争する第1組合の組合員達と、会社が作った御用組合である第2組合の組合員達が角材を持って激闘したり、第1組合の組合員が右翼の暴力団に殺されたり、職場死守の「ホッパー決戦」など、男たちの派手な労働運動の陰で、炭住でも女たちの陰険な争いがありました。亭主が第1組合か第2組合かで、炭住内での近所付き合い、反目も決まってきました。更には、亭主が第1組合から脱退でもしたら、亭主以上に厳しい「制裁」が炭住内でも課せられたことは想像に難くないです。そんな人間関係の泥沼のような地獄の中で、陰険な事件・事故も沢山ありました。

 旦那が第1組合所属の組合員である主婦たちが「三池主婦会」主催で、毎日炭住内をデモ行進しました。赤ん坊の私を背負った母も参加しました。しかし、社会的な視点がありようもない農家の若い娘だった母にとっては、半強制のデモが嫌いだったと母から聞きました。しかし、私は、そんな母の心を知る由もなく、インター(革命歌)と労働歌を子守歌にし、赤い鉢巻きと赤旗の波を原風景に育ってしまいました。実際少し成長してからの幼児の遊びは、「あんぽはんたい」ごっこと「もやせ、もやせ」という労働歌や革命歌を訳も分からずに歌っていたそうです。会社側が、飛行機セスナから「退職届」用紙を炭住の上に播いたのですが、幼児の私たちは、それを拾って集めました。

2015-12-20 に書いたBlog より・・・

プロフィール写真について

写真は4歳の時、三井三池炭坑大平社宅(所謂「炭住」)で・・

幼児のときメタトロンに救われる・・

私の人生は我ながら面白いもので

4-5歳迄に「とても異常なこと」を何度も体験してしまいました

(戦後最大の労働争議現場の陰でのギリギリ追い詰められたひとびとの諸不幸が関係し

ているのでせふ)

(4-5歳迄に体験したことに較べればその後に体験したこと(針の筵に何十年もいました

が)なんてたいしたことない)

最近はっと気付いたのです

私の人生はその「とても異常なこと」の時点で止まっていると・・

((針の筵に耐えられたのは4-5歳迄に体験したこと故であると)

だから此の幼児写真は今の私の「実像」でもあると思ふのです

4-5歳の「とても異常なこと」(PTSD)に引っ張られて

多分2-3歳の頃に体験したことのイメージも鮮明に残っている部分もあります

(未だその場に居るかの如く空気感も場の質感も気温も湿度も)

時間が止まっているのです・その頃に

(此の写真の頃の直ぐ後です・致命的に大きな「異常」(PTSD)と遭遇したのは)

全ての出発点はこの「とても異常なこと」(PTSD)に始まり

私の人生は多分その「とても異常なこと」(PTSD)の「意味」との挌闘に帰結していくのだ

と思ふのです

おそらく、其の体験の直後、父か、誰かが私をメチャクチャ殴ってくれてでも

地面に足を着けさせてくれていたら(此方に戻してくれていたら)、

その後の私はもっとまともになっていたでせふ

でも仕方ありません・其れが私の運命なのですから

モイラがそう決めたのでせふから引き受けざるをえません 

Blog 2015-12-20 から

4 離婚しようと・・

 父が熱心な労働運動の活動家になっていくのを母は快く思っていなかったようです。性格的な不一致もあったのか、母は、幼児の私を連れて離婚しようと実家に帰ってきました。3番目の兄が存命で農家を継いでいましたが、その長兄の嫁は、「我慢できないならこどもを連れて帰って来たらいい」と母を擁護してくれたのですが、母の母親、私の祖母は「こどもを父方に置いてひとりで帰って来るのならいいけど、こどもを連れて帰って来るのは許さない」と強硬に反対しました。結局、母は、幼児の私を手放すことができず、父の下で苦労することを選択しました。

5 運命? 致命的PTSD・・

 その当時か、暫くしてのことなのかもしれませんが、私には一つの鮮明な記憶が残っています。大争議の裏の炭住で陰険な悲惨な出来事・事件が少なからずあったのですが、そんな過酷な現場に居る幼児には、そんな出来事・事件がストレートに襲い掛かってきました。幾つかの不思議な(悲惨な)出来事もあり、致命的な「事件」が幼稚園児の時に私に襲い掛かり、今なら精神科の治療対象になるPTSD(心的外傷後ストレス障害)に罹りました。其の致命的なPTSDのお陰で、「事件」の鮮明な記憶のお陰で、私の記憶は2-3-4歳の頃のも一部分鮮明に残っているのです。

 (実は、この時、ひとりの女の子が「事件」現場に一緒に居たのです。社宅の同じ屋根の下に住んでいたので、いつも一緒に遊んでいました。「おかあさんが、人は死んだら物になるって言ってたから私平気」と強がりを言っていました。女の子は強いと思っていたのですが、実は変な行動があったのです。畳みの上でうつ伏せになり、両手を下腹部に入れて、じっと私の方を見つめているのです。・・お医者さんごっこをしたこともあります。・・)

かくは悲しく生きん世に、なが心 かたくなにしてあらしめな

                            中原中也・・

やれ壁にチチアンが名はつらかりき湧く酒がめを夕に秘めな

                            与謝野晶子・・

カンディンスキー

クレー

椎名林檎を想起しつつ・・

断片と化した人間たちがごろごろしていた・・

部品と化した手・足・胴体・頭・肉片・・

しかし、人間・だった・・わたしと同じ・・

それを踏みつけないかと・・

震えていた・・

真っ暗な映画館の中・スクリーンに映るのが・世界・なのか・・

死体が・世界・なのか・・

しらじらしい気がした・世界が・・

スクリーンに映る・・

「世界」・「「世界」」・「「「世界」」」・・・

遠くなっていく・・

死体にワープした・断片と化した・物に・・

物の側に・・

ただ震えていた・・

血の海の中で・・

震えながら漂っていた・・

救いを求めることすら・・祈ることすら知らないこどもは・・

PTSD..

KIN233(2005.12.02) from Blog of 2013-09-13 から

(補注  此の文を初めて書いたのは遙か昔です)

幼児PTSDのお陰で2-3歳からの情景(原風景)がしっかり記憶に残っている。

熊本県荒尾市に嘗てあった三井三池炭坑大平社宅、所謂炭鉱住宅(炭住)は貧しい平屋の長

屋式の共同住宅だった。風呂は付いてないので共同浴場/銭湯に通った。父は会社なので、

母が一緒に女湯に入れた。幼児である我が子を母が風呂に入れる・・普通なら記憶に残ら

ない普通のことなのだろふが、前述の理由からしっかり記憶に残っている。年齢的に性的

な欲望とは当然未だ無縁なのだけど、その情景がしっかり目に焼き付いている。

   そして・・

美しい・・と感じたことも。母の裸体と女の裸体に。早熟だったのかもしれない。「美し

い」という言葉も今だから使えるのだけど。

性は死と関係がある。人の死と関係があるPTSDのお陰なのだろふ。そのレベルでの性の

目覚めが早すぎたのだろふ。だから、多分、母に対して母と子の関係、母と子の愛情とは

少し違った愛情が私にあったのだろふ。それを意識的ではないとしても、父は感じ取って

いたのかもしれない。私も、意識的ではないとしても、父に対して、そのレベルで嫉妬し

ていたのかもしれない。この深層心理での萌し・兆・徴が現実の父と母と私の人生の時間

で様々なハレーションを相互に惹起した。それは誰の責任だろふ。父の責任であり、母の

責任であり、私の責任であり・・なのだろふか? 強いて言えば、PTSDの責任であり、そ

の直接的責任は母かもしれない。しかし、それは母と父の、私には推測し得ない深い男と

女の深い事情があり、それに起因して、メタトロン(天使/運命)の介在故の、PTSDを来す

イベント故に私の生物的生命が延びたのだから、仕方ない。。

だから、今、私に取り得る責任は、私の生物的生命を延ばしてくれたメタトロンに対して

しかあり得ないのだろふ。父も母も私も、そのレベルでは主体性がないのだから運命に翻

弄されたに過ぎないのだから責任の取りようがない。有るのはメタトロンの主体性だけな

のだから。

Blog 2016-06-03 から

6 薬局をふたりでたずね歩き・・

 幼稚園に通うずっと前の幼児の頃ですが、母に手を引かれてふたり、寒い曇り空の下、黙って町中を歩き廻りました。何故か、薬局ばかりを次から次に廻りました。ハンコを押していた母の様子も記憶しています。多分、睡眠薬か何かを買い集めたのだと、今、思います。多分、私を連れて死のうとしたのだと思います。思い止まってくれたお陰で、今、此を書いているのですが。。

寒風吹き荒ぶ冬曇りの空の下

手を握り合って

黙って歩く母と子

薬局を廻った

母は・・迷っていた・決断していた

引き留めたのは

わたし

だろふ

たぶん

引き留めた責任って

あると

思ふ

Blog 2016-03-29 から

7 父、戦線離脱?・・

 母は、離婚しない代わりに必死の思いで、父に頼みこんで、労働運動の活動から引き離しました。母には、三池の労働争議の本質を理解できなかったことと、経済的貧困が理由なのでしょうか。活動家らしい男達が家に押し寄せてきた記憶が鮮明に残っています。「君のお父さんはとても偉い人なんだ」と大きな声で執拗に私に言う姿と、男達が帰った後の父の狼狽した姿が鮮明に記憶に残っています。泣き出した私を母は庇いました。活動家達が父の説得工作に家に押し寄せたのでしょう。

 その後、父の生活が荒れてきました。パチンコに嵌まり、バー・キャバレー通いで、家に帰らないことも多々あるようになりました。父が会社に籠城していて、母と一緒に面会に行ったことも鮮明に記憶していますが、第1組合のピケの籠城だったとずっと思い込んでいましたが、恐らく、逆に、スト破りの籠城だったのでしょう。父が第2組合に転向したかどうかは分かりませんが。多分、転向したのでしょう。いや、母に転向させられたのでしょう。母に連れられてキャバレーに居る父を迎えに行ったことも、鮮明に記憶しています。ただでさえ安月給なのに、そんなことに給料を遣い果たし、困った母は実家に無心に行きました。貧乏のどん底を味わいました。ご飯のおかずがなく、塩を掛けて食べたことも鮮明に記憶しています。・・・しかし、父の、母に対する「抗議」だったのかもしれません。

8 母 続く妊娠中絶・・

 そんな経済的極貧にも拘わらず、いえ、経済的極貧故、母は、2回妊娠中絶しました。3回目、子宮外妊娠して死線を彷徨いました。其の病院の消毒の匂いも、看護婦さんの白い姿も、小学校みたいな病院の長い廊下も、母のベッドも、病院に咲いていたコスモスの花も、鮮明に記憶しています。母の入院手術の間、(父が好意を寄せていた)長女の嫁ぎ先の農家に私は預けられていました。其の農家の様子も鮮明に記憶に残っています。恰も、時間が止まっているかのように。

 私自身も、重症の肺炎に罹り、死線を彷徨いました。母の心労は想像以上だったと思います。

病院の渡り廊下の消毒薬の匂ひ

看護婦さんの円い白き帽子

病院の庭に咲くコスモス

パイプベッドの母の顔

親戚(母方)の農家の大家族

一言も声掛けてくれぬおじいさんおばあさん

農家の朝の卵掛け御飯の美味しさ

銀河程沢山の蛍舞ふ小川

土間の長机・長椅子での食事

竈の煙

ひよこ/雛の匂ひ・声

五右衛門風呂の匂ひ

薪の燃える音

蝉の鳴き声

西瓜と金瓜の匂ひ

(母が大病し母のお姉さんの嫁ぎ先に預けられていた)

・・・・2-3歳の頃の微かな記憶

Blog 2016-03-23 から

9 父 東京本社「栄転」!?と、父との葛藤・・

 原則的労働運動=第1組合離脱を条件にした、会社側との取引だったのかもしれませんが、私が小学校2年の時に、父は、東京本社に「栄転」しました。

 今でこそ、会社での、父の苦労も想像できますが、其の腹癒せか、夜遅く泥酔して帰宅した父は、母に対して殴る蹴るの暴力の限りを尽くしました。父が、大声を出して母を怒鳴りガラス戸を手で割って父自ら大怪我したこともありました。隣り近所に申し訳なさそうにして謝って廻った母の姿が記憶に焼き付いています。そんな父が暴れている間、布団の中で私は泣いていました。泣くことしか為す術がありませんでした。

 PTSDのこともあり、私の性格は荒れました。虐めも嘘も盗みもやり(母が泣きながら私を叩いて押し入れに閉じ込めたのを記憶しています)、また、酷く虐められもしました。PTSDの症状そのもので、学校の勉強は嫌いで、学校という集団生活そのものに生理的拒否感があって、学校の先生からも酷く嫌われました。

 PTSD故、酷いフラッシュバック・悪夢・幻覚に恐怖し続ける中、私の親離れは早く、幼稚園の頃から暗い性格で、親を客観視していました。親のみならず、周囲の大人に対しても批判の眼・過敏過ぎる程の感受性を持っておりました。と言うか、世界そのものに居心地の悪さと、世界に対してベールに包まれた隔絶感を感じ続けていました。太宰治の「トカトントン」状態、つまり、日常的な無気力状態・虚無感に取り憑かれました。今でも、その残照が残っていると思います。

 特に、父に対しては、父の、母に対する暴力もあり、根源的に嫌っていました。のみならず、実存的にも嫌っていたのでした。PTSDに罹った私に対して何も為す術もなく、それどころか茶化すところがあり、心底嫌悪し軽蔑していました。私を私のために、腕の1本2本失ってでもいいから『私のために』、私をPTSDから救うために、此岸に留めるために、そのために殴ってでもいいから私に関わってくれなかった、関わろうとしてくれなかった、関わる能力がなかった父に対する実存的抗議でした。母は、私を、私ひとりを育てるために3人もの妊娠を否定して、結局、3人もの兄弟を犠牲にして「私」を育ててくれました。(そのことが、今、私の上に重圧としてのしかかっています。そんな、3人もの生を犠牲にする程の「私」ではない・・と。)

 小学生の頃から背が高い方で、母と一緒に歩いていると、よく振り向かれました。少し大きくなってからは、母と子ではなく、別の関係のふたりにも見られました。母20歳の時のこども故、私が10歳の時、30歳の母だったので、母と一緒に歩いていると、欲情的な熱い視線を母に向けている男に気づくことも何度かありました。母にとっては、私は或意味ボディガードの役割も果たしていました。母も、私を「若い燕・・ふふふ」と冗談を言ってました。

10 自分の中の「父」を否定すると決意・・

 中学生の頃、私は私の人生で重大な「決断」をしました。私の中に、「父」を見たのです。父特有の対人関係での虚栄心・尊大さ・独善性、欺瞞・嘘・・そんな父の性格が私の中に、自分自身にもあることに気付いたのです。心から其れを憎みました。

 母も、私のために父との夫婦関係を継続し、私も私自身の人生のために父を、自分自身の中の「父」を否定し続けました。父の、母に対する暴力はずっと続きました。

 私の、10代後半の思春期・反抗期には、父のみならず、母に対しても悪態の限りを尽くしました。母が私に本気で殴り掛かったこともありました。

 (ただ、工業高専時代、同じ歳の友人が彼女と一緒に私を訪ねて来たとき、母が玄関口に出たのですが、母が応対した直後、その友人が、彼女が橫に居るのにソワソワ・ドキドキしているのです。私の母がとても美しいと云うのです・・・。)

 ただ、父に感謝すべきことなのですが、東京「栄転」し、父の虚栄心故、三井三池製作所から三井物産(系の会社・東邦物産)に移転し、其の子会社の代表取締役になっていたので、工業高専から直ぐに就職せずに、大学文学部哲学科に進学する程度の経済的余裕はありました。とはいえ、所詮雇われ社長故さほど裕福ではなかったので、システムオペレータのアルバイトをしながら大学に通いました。何故哲学科かと云うと、工業高専での電子計算機専攻→AI志向の問題意識が、幼児PTSD体験以来ずっと挌闘し続けていた哲学的・実存的問題と密接に関係していたからです。つまり、幼児PTSDの病状にずっと悩まされ続けていたのです。一番酷い症状は、10代後半から20代後半迄が最悪でした。周囲の人間との関係で、病的な事態が何度か生じました。工業高専卒業してコンピュータ関係の一流企業に就職した親友が、私と同じ道、大学進学をしようとして失敗し、社内での女性問題も起こして自殺未遂事件を起こしてしまいました。親友の母親から泣きながら「高専に入れなければよかった」と私に対して厳しい抗議を受けました。私の被害者です。

11 運命の悪戯か、また労働争議に巻き込まれる・・

 父の会社倒産に伴い、それと、私の登山好きが昂じて、大学院進学の「(哲学書の)黴臭さ」よりも、高い山の爽やかな空気を選択しつつ、ドイツ人経営の会社に独和翻訳者として就職しました。

 しかし、皮肉な運命に弄ばれて、私の目の前で、労働組合潰しの攻撃が始まったのです。

 三井三池争議は、母にとっては三池主婦会の半強制のデモ故苦痛だったのでしょうが、私にとってはインターと労働歌・革命歌を子守歌にして育ったのです。理屈ではなく、躰の芯に染み着いていたのです。

 理屈でなく、御用労組=第2組合に与することは私にはできませんでした。気が付いたら、第1組合の先頭に立っていました。否、第1組合(共産党指導下の労働運動)の偽善すら否定し、階級的に原則的に闘う労組=第3組合の先頭で原則的に会社と闘いました。結局、法廷闘争では、東京地裁・高裁・最高裁と連戦連勝でしたし、現場実力闘争主義だったので、階級的にも地域合同労組を誕生させ、労組組合潰し攻撃に対して完全勝利しました。

12 労働運動と家庭内での確執・・

 しかし、その過程で、針の筵の上での25-29年間でした。会社内では、私以外全ての社員に無視されたり、私個人に対する誹謗中傷から夜中の嫌がらせ電話、会社に対する要請行動の際、時には暴力的に対応され、仕事上で管理職から積極的に攻撃され、しかも、自宅でも、父も母も私の闘争を認めてはくれないというか、冷ややかな眼で否定しました。

 そんな四面楚歌の中で生きるか死ぬかの階級闘争を継続し続けるには、精神的にも肉体的にも強靱でなければなりませんでした。特に父は、第1組合から第2組合に「転向」した負い目もあり、私に対する人格否定は辛辣でした。家庭内でも、父とも階級闘争をしていたのです。ともすれば、会社での闘争に負けてしまいそうな私を鼓舞し続けていくためにも、私は父を余計に否定し続けました。それは、実は、他でもない、私の中の「父」を否定し続けることでした。父の階級的裏切り・敵前逃亡を否定すれば否定する程、私は、針の筵の職場であっても、たとえ、発狂したとしても、しがみついて闘争し続けるしか仕様がなかったのです。職場でホントにキツい時、心の中で嘗て三池で聞いた「子守歌」インターを口ずさんでいました。仕事で足を掬われないように独逸語を徹底的に復習・独習し、精神医学の本を読みまくり、自分で自分に治療を施しました。

 しかし、母からの、私の職場闘争に対する否定的な処遇には、意識的に対峙しないようにしていました。母に対してまでも直接対峙していたら私が崩壊することは目に見えていたからでした。打算でした。結婚し、子供が生まれ、共働き故、なによりも私の闘争故、母が祖母として私の長男・長女を育ててくれました。私自身を肉体的にも強靱にする意図もあって、また母の望みでもあって、母や子供たちと一緒に農的生活も志向し、実践しました。母は、農業を嫌ってサラリーマンの父と結婚したのに、農的生活が懐かしくなったのでしょう。毎週のように、母や子供達と一緒に「農場」通いする私に父が嫉妬しました。

 父と母と、私との、そんな複雑な関係の中で、子供達も戸惑ったことでしょう。特に私の息子は、私の父と私との葛藤をストレートに受けてしまったのです。そのことには、責任の重大性を感じます。

 前述のように、PTSD故の「トカトントン」、日常的な無気力状態・虚無感が私の本質なのにも拘わらず、いや、それ故、職場闘争という緊張せざるをえない熾烈な闘争から逃亡できないからこそ(寧ろ積極的に飛び込んで行ったからこそ)、自分で自分に積極的な行動を強制しました。それが、傍で見ていると、一生懸命いきいきと生きている活動的な人に見えたのでしょう。本当は、自ら処理しきれない程大きな矛盾を内に抱えていたのです。超多忙な職場と職場闘争でも息子の子育てには積極的に関わり、それでいて、それだからこそ、その私を全面否定する私の父と、そんな父を全面否定する私との狭間で、子供達、特に息子はたいへん戸惑ったことでしょう。

 父と母の不幸せな結婚生活の中、もともと父を嫌っていて、父と私との葛藤の本質も、意識的にか無意識的にか敏感に感じ取っていた母も、孫達との関係と、私との関係にべったり依存するようになっていきました。それは、時には、自己犠牲とも言える程の依存度になっていきました。そのことに、私はずっと気付きませんでした。しかし、母にとっては、孫たちの子育て時代=野良仕事と、日舞の稽古と名取りになっていく過程の時代が、最も幸せな時期だったのだと思います。

13 スピリチュアルの「気付き」と「徹底的な客観視=Vipassana」・・・

A. 職場の労働運動の「戦略」として第1組合員たちとは、分裂直後の一時期を除いて、親しくしていました。その一貫で、治療法を持った某新興宗教の教導師故佐藤雅子師との深い交流が続きました。第3組合である私と第1組合の組合員たちとの「接着剤」の役割を果たしました。しかし、そんな打算的な関係を遙かに超えて、スピリチュアルな密接な関係へと上昇しました。

B. 更に、職場では「危険人物」視されていた私と、ピュアな新入社員の何人かとは非常に親しくなりました。そのひとり、秀才 故小杉智師とは一緒に、かなり難解なハイレベルの職場の仕事(電気・電子・情報・医療電子機器など最先端技術)・独和翻訳も熟し、哲学・仏教・スピリチュアルの面でもかなり深く議論し、厖大な情報も智慧も彼から得ました。Vipassana 冥想、チベット仏教・Vipassana Dzogchen 冥想も彼から教えられました。

C. 其の過程で、父の戦線離脱とは全く違った意味で、自分にとっての「労働運動」の本質を悟ったのです。「組織」ではなく、「階級闘争」でもなく、「個」と「個」の人間的な関係での「労働運動」だったことに気付いたのです。実際、職場では奇蹟的とも言える完全勝利を果たし、或意味、会社が散々私を誹謗中傷してきたように、私は、労働運動の「戦士」(本質的には組織なしの戦士)として職場に居たのだから、勝利後も職場に居続ける道義的意味はなかったのです。寧ろ、私の「ドラマ」を完結させるためにも自主退職し、次のステップに進んだのです。つまり、会社は、ドイツ人上級管理職と日本人中間管理職との間に方針が一貫されていなかったようで、日本人管理職は、私が仕事ができないと罵倒しつつ会社から追い出そうしている最中に、ドイツ人管理職が会社の名誉に関わる最重要な仕事(MRIの基本特許に関する特許戦争のドイツ企業側の翻訳実務)を私に担当させて、トータル8年程かかって最終的にクライアントの完全勝利にもっていきました。だから、会社に居れば居れたのだけど、定年10年前に自己退職しました。

14 ホリスティックの表現者として・・

 超多忙職場での独和翻訳仕事の傍ら、労働運動と、韓国舞踊・能の舞台撮影・歌舞伎楽屋撮影・宮大工現場撮影をモノクロフィルムで撮影し、暗室作業し、野良仕事に小屋建築と、自分で自分を追い詰めていく生き方を父母は理解できなかったでしょう。

 そもそも、未だバブル期で、同期が一流企業に続々と就職していく中、態々苦労して大学に進学する時点で両親は酷く戸惑っていました。「態々苦労しなくても」と母は心配していました。自分でも、本当は、工業高専を卒業したら、山口県辺りのコンビナートにでも技術者として就職して結婚して釣りでもしながらのんびり生きようと思っていたくらいですから。大学卒業時も、熊本が発祥の地である東海大学付属高校の非常勤教師の話を蹴って、一部上場のコンピュータ会社の内定も蹴って、ドイツ人経営の翻訳会社に入ったお陰で、労働運動に巻き込まれてしまい、真正面から対峙しました。この行動は、前述のように、父母には全く理解できなかったのです。

 自分の中では、確実に一貫性を確信していました。ただ、それが一体何なのか、未だ明確にできていませんでした。

 漠然としてはいましたが、キーワードは、「ひとつ」「一」「全て」「パルメニデス」「ホリスティック」「医衣食住」で、自分の全体、自分の日常生活の全てを「ひとつの表現」として提示したい、ということでした。

15 父と母の同質性と、私との異質性

 縷々述べてきたように、父と母との屈折した関係、時には憎しみに近い関係でした。其の関係に、私の幼児PTSDがぴったり嵌まって影響を与え、「父 性」を否定し、「母 性」を肯定するという親(父と母)子関係が固定化していきました。

 ただ、父と母の唯一の共通点とでも云うべき、同郷の出身という点では、私は全く疎外されていました。私は、熊本の母の実家の農家で産まれただけで、育ったのは、熊本・福岡の炭鉱住宅でした。熊本、玉名や荒尾の出身地での若い頃の思い出などを語り合う時には、何故か方言で、本当に仲の良い夫婦の会話が弾んでいました。私が、橫で嫉妬するくらいでした。

 それのみならず、本質的には、父と母とは同類であり、互いに似ていて、お似合いのカップルだったのだと思います。私が嫌った父の性格というものも、実は、極く普通一般の男性の性格(虚栄心・競争心・自己中心性・妄想/空想・虚言)だったのでしょう。少し、ほんの少し偏差値が高かったくらいのことでしょう。信仰の欠片もないと云うと云い過ぎでしょうが、極く普通一般の日本人に常である程度の普通のひとたちでした。両親が私に期待したのは、極く普通にサラリーマンになって、普通に結婚して、普通に子育てして、家庭を大切にし、普通に老いていき、普通に親孝行するといった平凡さだったのだと思うのです。人生に何ら主体性も、主体的なテーマもなく、まぁ、父はほんの少し野心的で経済的成功を夢見ていたようですが。母の方は、父との不幸な結婚もあり、更に3人もの妊娠中絶もあり、20歳という若さもあり、子供に対する依存度が高かったのでしょう。

 それに反して、私は、前述のような幼児PTSDのお陰で、親離れが異常に早く、或意味、反抗期が早くも幼稚園頃から始まったのかもしれません。「家族」という社会的に基本的な単位よりも「個」に生かされ続けて来たように思います。PTSDに関わる事件が、そんな「家族」「地域」「学校」「国」という『制度』よりも『世界』の存在自体に対して距離を置かされた、客観的に観るようにさせられた、そういう感じなのです。幼児の頃、形而上学的・哲学的な難問と同類の問いを投げかけることは成長期には時としてあるのでしょう。一般には、大人になるに連れて、そんな難問も「馬鹿げた問い」として忘れてしまい、「大人」に成って行くのでしょう。私の場合には、自分の精神的な安定のためには、自分自身の存在の安定のためには、「世界」の中で「世界」に対する「居心地の悪さ」から脱却するためには、其の難問に「解答」を得ることが最優先課題だったのです。周囲の同級生たちが、自分とは全く違った世界に住んでいる住人てあるかのように感じていました。絶対的な劣等感・孤独感にオドオドしていました。そんな自分を克服することが自分の課題だったのです。そのためには、父性を否定するしか為す術かなかったのてす。父母にとっての「幸福」と、私にとっての「幸福」が全く違っていたのです。私にとっての「幸福」は、学校での「いい成績」「いい学校への進学」「いい会社への就職」「幸せな結婚」「幸せな家庭」「経済的な安定」・・そんなものとは全く違ったものでした。「世界」に対しての居心地のよさ・幼児の頃芽生えた形而上学的・哲学的な難問に「解答」すること・・其れが、私にとっての「幸福」なのです。両親と私との、そのような絶対的な乖離は、只管幼児PTSDにこそ起因するものでしょう。

母は寝ている時が多くなった。以前のように、意識がしっかりあることを納得させてくれ

る感動は少なくなった。看護師さんによって、起こしていいですよという人と、寝かせて

あげてくださいという人と2パターンがある。「介護は親からの最後の教育」とのこと・・

母の寝顔を見ながら思いに耽る。孫と一緒に京都の真如堂(ぽっくり寺)に迄願掛けに出掛

けた母・「何もするな」という遺書めいた手紙を書いていた母・・今の状態が幸せだろう

かと・・。もっと、意識がしっかりあることを納得させてくれる感動が沢山あったら、そ

んな感動が増えつつあるのならまだしも・・。医師が謂ふよふに、次第に減衰していくと

いう、その言葉通りになっていきつつあるのかもしれない・・。母が最も避けたかった事

態に成りつつあるのかもしれない・・。

いろんなこと思った。老人医療の充実とか脳医学のこととか。母と(父と)私のスピリチュ

アルな関係とか、PTSDのこととか。私に対する父と母の責任とか・母に対する私の責任

とか、父に対する私の責任とか。

最近思ふ。それは、父や母、そして私の力を超えたことであって、父や母に責任を問ふの

はお門違いというものかもしれないと。私の責任を問われても。。強いて謂ふならば、メ

タトロンにこそ責任を問わねばならない。運命の女神モイラの責任こそを問わねばならな

い。それは、人にはできないこと。

母は母の人生を走り去りつつあり、父は父の人生を走り去って逝った・・

母は母の宇宙を生き、父は父の宇宙を生き・・私は私の宇宙を生きるしか仕様が無い。

そこに責任云々は存在しないのではないか・・単にモナド的宇宙が経過したに過ぎないの

だから。

その中でのちょっとした触れ合い・宇宙の小さなイベントに過ぎないのだから。

母の主体性こそ最大尊重すべきことであって、母にとって、私と母のスピリチュアルな関

係とか、PTSDのこととか、ちっぽけな、忘れ去ってしまっている日常生活の小さな出来

事に過ぎないのかもしれない。母の主体性は、今の事態・此から向かうであろう事態こそ

避けたかったのだから、その主体性こそを最大尊重すべきと。

母は母であって、私は私であって、母は私の母であるという関係に過ぎない。。。。。

母にとっては私の宇宙より母自身の宇宙が大事であって、私にとっては母の宇宙より私自

身の宇宙の方が大事であって・・それでいいと思ふ。親と子の関係は・・それでいいと思

ふ。それしか仕様が無いと思ふ。

2016-06-01 から

16 世界で起きることの「意味」

 父と母が現世から去って以来、父母と私の関係について想います。ひとは、父と母を選んで此の世に生を受けると言います。自分は、何故、此の父と母を選んだのだろうかと。こんなにも価値観も生き方も違うのに。

 2歳~5歳に経験した出来事というのは、どう客観的に観ても異常としか言い様がないことでした。精神的にも肉体的にも死線を彷徨った感有りです。PTSDのお陰で、2歳頃迄の記憶が部分的には残っているのですが、其れ以前迄辿ることはできません。ただ、生まれて初めて海外に行き、初めてソウルの西大門の日帝時代の刑務所跡の中に入った時、或る独房の格子窓から外を見た時「あ、見たことがある」「此処に居たことがある」と確信したことがあるのです。既視感という心理現象なのでしょうが。それ以上の知見は未だ得られてはいません。

 多分、私が今在るような生を得るためには、其の地獄のような体験は必須だったのだと思うのです。それ程の「業」を背負って生まれて来たのだと思うのです。(そして、また、私と関わるひとたちに対して、新たな「業」を重ねているのかもしれません。特に息子に対して・・)幼児が引き受けるには限界を超えたPTSDの地獄は、過去の大きな罪深い業を浄化するための「禊」だったのだと思うのです。

 それと、其の地獄の経過の過程で、何か別の何か、誰かの「意思」を感じるのです。そう思うしかない程の出来事に何度も遭遇したのです。その別の何かの姿・イメージを得させてもらったのは、故小杉智師による迄待たなければなりませんでしたが。

 しかし、其の体験がずっと劣等感の原因でした。其のネガティブな感情・病からの脱却のためにこそ、父母から見たら信じられない程、自ら地獄に飛び込んでいったのだと思うのです。もっと大きな地獄を味あわされたひとも沢山居るでしょう。そんな比較は意味がありません。ひとは、それぞれの「ドラマ」を生きているのだと思います。つまり、「意味」を生きているのだと思います。それを自ら分かる過程こそが、人生なのかも知れません。

17 再度「父」と「母」の「意味」・・

 上述のことから推察し得るように、私にとって一番大切な価値は、「階級闘争」でも「労働運動」でも「社会運動」でも「反原発」でも「家庭」でも「会社(仕事)」でも「自然(科學)」でもなく、『全て』への『問い』・『全て』の「根拠」であり、つまり、「宇宙」そのものの存在の「根拠」であり、他でもない「私」の存在の「根拠」であり、要するに、「神への問いかけ」「仏への問いかけ」こそが私にとって最大且つ唯一の「価値」なのです。(其の意味では、工業高専電気工学科から大学哲学科への進学は正解でした。)其の問題意識の直ぐ下での「ひとつ」「一」「全て」「パルメニデス」「ホリスティック」「医衣食住」であり、更に其の下での「社会運動」であり、「反原発」であり、「自然(科學)」であり、自分の全体、自分の日常生活の全てを「ひとつの表現」として表現することなのだと思うのです。

 「父」は、本来、自称「向坂学校の優等生」であって、原則的な第1組合三池労組の組合員であり、「母」が其の「父」の本来の「社会性」を否定したのですから、「私」は、「父」の本来の本質に近いということになります。

 「母」は、赤ん坊・幼児の私を背負って、三池主婦会主催のデモに動員されて参加していたのですが、「父」との諸関係(労働運動だけが原因ではないのでしょうが)の中で、そんな「父」の「社会性」を否定したのだとしたら、私は、私の中の「父性」を憎み・自己否定し続けてきたのですが、実は、私の中の「母性」も否定しなくてはいけなかったのでしょうし、「インター」「労働歌」を子守歌に聞いて育てられた私は、父の「父性」の深層にある「社会批判の精神」(母が父の其れを否定した)は否定しようにも否定できる筈がないではないですか(父は母の意思に妥協してしまいましたが)。其のことを、大人になって、社会人として、150人規模のドイツ人経営の会社でリアルに検証・実証してしまったのですから、余計に否定できる訳がなく、其の点では、決してぶれない自信・確信があります。ただ、其れが組織労働者・活動家としての其れではなく、神仏の前にひとり立つ、自律した個人・精神としての自信なのです。(だから、私の棺には「赤旗」ではなく、「黒旗」を掛けて欲しい・・いや、「藍色」の布を掛けて欲しい)

 ずっと父を憎み、母の味方だったのでしょうが、このような評価の逆転が起きたのは、実は、此処10年前後のことなのです。Vipassana Meditation の成果もあってか、「母」を徹底的に客観視する過程で「母」の本質に気付いたのです。ただ、父にも言えることですが、もっともっと主体的に生きて欲しい、そう思うのです。自分の人生なのだから自分のためにこそ生きて欲しい、何かを誰かを待っていてはいけないのだと思うのです。自分で考え、自分で決め、自分で動いて、動かして欲しい、そう思うのです。それであってこそ、初めて、父の人生であり、母の人生であると思うのです。まぁ、母は、父の「活動家」を強く否定したのですから、主体的だったとは言えるのでしょうが。

 「三池争議」は、父母の責任ではないのですが、其れに起因して、こどもの私に生じたことについては父母の主体的責任は大きいです。其の責任を父母がとるには、余りにも多き過ぎる出来事であることも理解できますが、少なくとも、父母共に理解しようとすることはできたのではないでしょうか。真正面からPTSDの私に対峙して、少なくとも主体的に話を聞く、主体的に対話することぐらいはできたのではないでしょうか。心配するだけでは、責任をとることにはならないのです。家族は、生物的な繋がりですが、多分、生物的な繋がりよりも魂の繋がり・精神的な繋がりの方が大きいのだと思います。だから、その領域(PTSDに起因する難問)の問題については、故 小杉智師(哲学者・数学者)や、故 佐藤雅子師(信仰者・治療師)の方がよっぽど父母よりも私の本質を理解しています。

 母は、最後迄、此の点で私を理解しようとはしませんでした。父に対する評価も、「私も、私の息子も父の血を引いているのだから父に対する罵詈雑言(それ程父に対する恨みが大きかったのでしょう)は聞くに耐えない」と息子と共に母に言ったことがありましたが、母の態度は変わりませんでした。

 其れでも、母との生物的・精神的な繋がりの大きさは、幼児の頃からずっと自覚していました。つまり、母なりの、こどもに対する愛情は人一倍感じていました。其の母の愛情に応えようともし続けてきました。だから、余所から見たら、母親思いの孝行息子に見える時もあったかもしれませんが、それ以上に、父が私に対して母との関係を疑う程であったかもしれませんが、其れは、多分、複雑に屈折していたものだったと思います。特に、母を客観視できるようになってからは。

 事実上「ひとりっ子」故、他者からはよく「大事に育てられているでしょう」「真綿に包まれて」とか言われましたが、極貧故、PTSD幼児体験をさせた故、本質的には、私には、主観的には、かなり冷たい父母にしか見えませんでした。

 故 小杉智師と行こうとしていた京都鞍馬寺のウエサク祭に彼の他界後行った日の夜中、麓の駐車場に停車した車の中で仮眠していた時、亡き父にしっかり抱かれている夢をサナット・クラーマは見させてくれました。私の深層心理だったのでしょう。私の本質の場で、父に認められたい、父に愛されたい、父に抱かれたい、と。

18 母との最後の「対話」・・・

 脳内出血で母が倒れて言語能力を喪失してからも実は、私は母と意思疎通ができていました。客観的には、医師から見たら「そう見えるだけ」と言うのでしょうが、実は、確実に私は母と意思疎通できてました。特に、母が他界する数日前、母のベッドの橫のソファで寝ていたのですが、しっかり交流していました。「何時も一緒に居たのに、寂しくさせて、ごめんね」と繰返し言うと、母は涙を流しました。私が橫で寝ている間、母は一晩中眠らないで起きていたと看護師さんが言ってました。母は文章理解能力も最後迄持っていました。言語発話能力だけが喪失されていたのです。

母他界前日夕方母は、私には見せない笑顔を見せてくれ、唇をはっきり数回動かしました。しっかりした眼で。母が倒れてから他界する迄の1年半という時間は、母がVipassana する時間、「神との約束を思い出し 自分を正す反省を毎日行う」(高橋信次)時間だったのだと思うのです。だから母には、自分が逝く時が分かったのです。其れで、其のことを私に伝えたのです。それでも、私は、自分の、自分にとっては大事な用事のために立ち去ったのです。直感的に、「これが最後」と感じたのですが、母も無反応だったのですが、眼はしっかり開けて空を見つめていました。

正直言って、その時には明確には分からなかったのですが、今、上述のように縷々省察・Vipassana してみると、上述の論理を瞬間的に推論していたのです。母と同じレベルで、父も、私にとっては大事な存在であったこと、ある意味、母が否定した「父」の本質こそ、私の本質でもあること、そのことを母に理解して欲しかったのです。だって、母と同様に父も愛しているのですから。

 父が病院で亡くなる前ずっと母は、父の入院中、実家のある熊本の親戚の家に行っていました。こっちで、父の病院に私が見舞いに行くと父は「シエ子は?」と聞きました。何度か聞かれました。「お兄さんが危篤だから熊本に行ってる」と応えました。父は、それ以上何も言いませんでした。寂しそうでした。其のお兄さんの葬式の日、母を迎えに熊本に行って、帰って来る途中熊本空港の手前で父が亡くなったことを電話で知らされました。朝、羽田空港に行く時、父の病院の直ぐ橫を通過しました。よっぽど、父の顔を見てから行こうかとも思いました。父の状態も分かっていましたから、病院に寄ったら母を迎えに行けないと思い、行きませんでした。母を優先しました。父が一番逢いたかったのは母だから。結局、父の最後には、私も母も間に合わなかったのです。人一倍寂しがり屋の父をたったひとりで逝かせてしまいました。

人一倍寂しがり屋の母が最後の眠りにつく時も、傍に居てあげませんでした。分かっていながら。。後悔しなかった・後悔しないかと言われると、後悔しないと断言できる訳ではありませんが、上述のことを瞬間に推論し、達した結論・行動だったのです。

もし、あの時、母の枕元から立ち去らなかったとしたら、私は、父に対して、申し訳ないと・・他界してからまで父を、母に較べて差別化したことになると。父の寂しさを母にも分かって欲しいと私が考えたとしたら、其れは、「傲慢」というものでしょう。そうではなく、母に対すると同じくらい、あるいは、それ以上に、母が転向させる前の父に「同志」として共感するからこそ、母を特権化・差別化することはできなかったのです。其の「同志」として「共感」する部分を是非母にも理解してもらいたかったのです。それ程、三池争議の後の日本国、否、日本帝国主義は、世界は、カタストロフに向かって進んでいるのですから。其の完成過程にある今だからこそ、母に其れを理解してもらいたかったのです。だから、其れに関係した「読書会」に参加しました。敢えて。

 母は、よく私のことを「自分と同じ、自分のことと同じことだから」と口癖のように言ってました。それ程までに、私と一緒に居たかったのです。其れを痛い程分かるからこそ、高い次元で、ハイヤーセルフで、「私」と交流して欲しいと思い続けて来たのです。最後に、母の1年半のVipassana Meditation の果てに、それが実現しました。そう、思うのです。そう思うことにしたのです。

 だから、最後に、母の細い細すぎる手首に、私が着けていたスピリチュアルの師 故佐藤雅子師の数珠を着けてあげ、母が着けていた数珠を私の手首に着けました。手には、私が績んだ大麻糸のくず糸の塊を握らせました。何時か、何処かで、再会した時に直ぐに分かるように。目印として。

「父に逢うては父を殺し・・」

亡き父と私の関係は此の次元のみの関係ではなく

恐らくもっと根源的な関係なのだろふ

今父のお位牌に毎朝手を合わせている

以前、(故小杉智師(独和翻訳者の後輩・秀才)と一緒に行こうとしていた)鞍馬寺のウエサ

ク祭に参加した後夜中の鞍馬山麓の駐車場に停めた自動車の中で夢をみた

父にしっかり抱かれている夢を・・(私の意外な深層心理だったのだろふ)

それでも未だに父を許していない自分がいるのは確かであり(此の世界の次元では前述の

よふに許している)、

多分、その高次レベルでは永遠に許さないのだろふ

父の、私に対する罪は、そういった類いの罪なのだろふ

1.

2-3-4-5歳の幼児に地獄を見せてくれた=「名なき」実在そのものに直接対峙すること

はひとには過酷すぎること(Platon)なのかもしれない・ましてや幼児にとっては地獄その

もの=世界そのもの

 これ自体は父の罪のみならず時代の罪でもあろふ(水俣(公害)・大牟田(公害)・三井三

池争議・・例えれば、パレスチナの戦場の子供たちのPTSD)

1-2.

地獄を見せてしまった2-3-4-5歳の幼児を父として救えなかった・救おうとしなか

った・抱いてくれなかった・祈ることを教えてくれなかった・手を合わせることを教えて

くれなかった・神を教えてくれなかった・この罪は大きい・致命的に大きい

(そのままだったら私は破局に陥ってしまったことだろふ・・ただ震えるしかなかった幼児を

メタトロン(天使・守護霊)が救ってくれた)

1-3.

通常の意味で見失ってしまった「自分」を奪還するために未だに苦しめられている

a. ただ此の最大の罪は実は最大のメリットになり得る・転化しうるのかもしれない・・

とも思ふ

嫌でも2-3-4-5歳の幼児にリアルそのもの・実在そのものと直接対峙させてくれたのだか

・・私というシステム=宇宙に組み込まれたプログラムの妙を思ふ

此の父・母に産まれた・此の父・母を選んだ実存的意味を再確認することが私の生なのだ

ろふ

父の罪・・と言ったが、実は自分自身の罪でもあろふ・父のみならず父の遺伝子に関わる

全ての罪でもあろふ

他でもない自分自身の罪を憎む故の父に対する反発でもあった

自分自身の中の父の性(さが)を否定することこそが自分に対する義務だった

「父に逢うては父を殺し・・」という臨済禅の言葉(「殺仏殺祖」)があるが

文字通り私にとって「父を殺す」ことが即ち「自分の中の父を殺す」ことであり

自分が自分である為の急務だった

このことが私の周囲のひとたちとの人間関係を歪ませた・歪ませ続けている

さらに母の危篤状態・シビアな決断を迫られている此の瞬間思ふ

上述のような自分自身に対する執着すらも捨棄してこそ

自分に逢うては自分を殺し・・ということもコトノハがココロに響く

自分自身に全身全霊で到達したとしても、そんな自分自身すら捨棄すべき・・    父の罪・母の罪・・それ以上に大きな私の罪こそ償わねば・・と

償いきれない罪を背負わねば・・と

      Blog 2016-03-16 から

       2017.10.15 記

大宇宙大神霊・仏よ

迷える霊に光をお与えください

諸霊の罪をお許しください

実在界の光の天使よ

迷える霊に光をお与えください

安らぎをお与えください

実在界の諸天善神よ

迷える霊をお救いください

いっさいの魔よりお守りください

           「先祖供養」高橋信次


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