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島原の乱と日本の「民主主義」


1 「アニマの鳥」石牟礼道子著 筑摩書房 1999.11.25

2 「煤の中のマリア 島原・椎葉・不知火 紀行」石牟礼道子著 平凡社2001.2.5

・・・と読んで来て、どうしても読みたくなってしまいました。。

3 「島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起」神田千里著 中公新書2005.10.25

 ・・学者らしいエビデンスに基づいたロジカルな内容で、酷い風邪なのに寒気に震えながら読んでしまいました。以下、日本史の素人の戯れ言ですが・・・(3冊の本を読んで、それをベースにして考えましたが、内容の責任は偏に私にあることは言う迄もありません)

日本が中世から近世へと移行する激動の転換期に起きた「島原・天草の乱」から、現在日本の「転換期」での、「日本」という国、「日本人」の本質が垣間見えてくるのでは、という思いです。

 1637年、未だ江戸幕藩アウタルキー(自給自足共同体)が揺籃期、3万7千人の農漁民の一揆を12万人の江戸幕藩体制の全力を尽くした暴力装置で大虐殺した「島原・天草の乱」ですが、先ず、こんな大規模な武装蜂起が日本で起きたこと自体に驚きます。体制(江戸幕府)にとっては、其の体制自体の存続の是非を掛けた大変な脅威だったのでしょう。よく、日本には、西洋のような、大衆の大きな変革運動は無かったという意見を言う方がいますが、其の反例の一つではないでしょうか。日本の「民主主義」を考える上でも重要な事件だったのではと思います。

 少なくとも「島原・天草の乱」の時代迄は、日本には未だリゾーム型(不確定的な状態にあるものが相互横断的に生成される状態)社会の名残があったのです。でなければ、3万7千人規模の武装蜂起は不可能です。つまり、江戸時代の徴表とされる「士農工商」の身分固定社会といえども、最底辺の庶民・百姓の主体的な選択権・権力は小さくなかったのです。他国と戦争をするにしても、指揮系統の最底辺=最前線兵士はこんな庶民・百姓だったのですから、彼らの士気を高く維持するにはトップの人格を含めた総合的な力量が問われたのであり、トップの天運如何によって自らの生き死にも決まるのですから、庶民・百姓は、地縁血縁で盲目的に従ったのではなく、トップをしっかり評価し、ネガティブな評価を下した場合には、簡単に見放した、つまり、敵に寝返った場合も少なからずあった筈です。

 本来、日本の中世社会は、このような庶民・百姓の意思が反映されるシステムのリゾーム型社会だったのです。信玄にしろ、謙信にしろ、義元にしろ、リゾーム型社会の長として優れていたのです。即ち、庶民・百姓の支持を獲得し、且つ、其れ故、武将としても優れていたのです。

 唯一例外が信長でした。伴天連と、その背後に位置していたヨーロッパ植民地主義の巨大な暴力装置に裏付けされて初めて、信長の「日本統一」=リゾーム型社会の否定=ツリー型社会の志向が可能だったのです。其の織豊政権の特徴は、秀吉による朝鮮半島侵略・中国大陸侵略迄射程に入れるスケールの大きさ(過度に大き過ぎる大きさ)だったのです。後者の真意は、信長を通じてヨーロッパ植民地主義の真の姿を見せつけられ思い知らされ恐怖した策士秀吉の謂わば「アンチテーゼ」だったのかもしれません。それと較べると、伴天連追放令は、ヨーロッパ植民地主義に対する余りにも細やかな抵抗にすぎなかったのかもしれません。日本史には、いや、日本人には、こんな揺れ戻り(「羮に懲りて・・」)が多いのかもしれません。

 織豊政権の失敗に学んだ最初期の江戸幕藩体制は、ヨーロッパ植民地主義という巨大な世界の潮流に対峙せざるを得ない状況だったのです。しかし、伴天連追放令ごときで事が済む程問題は簡単ではなかったのです。其の江戸幕藩体制の存亡を掛けた危機的「膿」が「島原・天草の乱」だったのではないでしょうか。伴天連・ヨーロッパ中心主義・植民地主義にとっても試金石だったのでしょう。但し、ヨーロッパ植民地主義列強内での対決、オランダ独立戦争(1568-1648)の影響もあったのか、家康の政治力乃至「運」かもしれませんが、「島原・天草の乱」では、寧ろ幕藩体制側にオランダがついたことが敗因として小さくないと思います。この辺の事情は正直言ってよく分かりませんが、マクロ的な視点から見ると、デウスを高く掲げる一揆軍側に信長の時のように伴天連・欧州植民地主義の暴力装置が梃子入れすることは十分にあり得たことだと思いますし、実際、一揆軍側の参謀レベルには、その期待があったようです。寧ろ、それ故の、其の確信故の武装蜂起だったのかもしれません。此処の事情については、神田千里氏も深くは語ってはおられないのてすが、いずれにせよ、現代日本では想像し難いのでしょうが、「島原・天草の乱」の本質が国内的には「経済戦争」ではなく「宗教戦争」だったことに謎を解く鍵があるように思います。

 信長以前の中世日本のリゾーム型社会を支えていた「信仰」的基盤は、「八百万の神々」の「神国」という「認識」と「天道」なのでしょう。それに対して、デウスに帰依し、日本的神仏信仰に呵責無き迫害を加えるキリシタン大名の誕生は、確かに神田千里氏が指摘するように宗教と領民統治という観点では「共通する発想」だったのでしょう。近親憎悪故激しく対立したという点も合理性があります。

 しかし、中南米諸国、例えば、メキシコ・グァテマラのようなマヤ文明の国々にも日本に負けず劣らず強い土着宗教が存在したにも拘わらず、スペインに完璧なまでに侵略・植民地化されてしまった例から判断すると、日本の土着信仰・宗教「神国」「天道」が例外的に強力だったと理解するには合理性に欠けるかと思います。或いは、例外的に強力だったのかもしれません。この辺の事情については、今後検証の必要があるかと思いますが、ひとつ、仮説としてありうるかと思うのは、信長の異常な迄の仏教寺院勢力の破壊、秀吉による執拗な「大風呂敷」的な海外侵略、徳川政権によるキリシタン弾圧が「島原・天草の乱」に典型的なように容赦なく徹底していたこと、それらは実は、信長はともかくとしても「神国」「天道」による日本統一を大義名分にした「内政」ではなく、伴天連・ヨーロッパ植民地主義列強を強く意識した「外交」だったのかも知れません。徹底した合理主義に対抗するための徹底した合理主義の貫徹だったのかも知れません。マヤ文明地域で内戦状態に近い「宗教戦争」が起きたのかどうかは、今の私には分かりませんが、日本が中世から近世に転換する過度期での織豊政権→徳川幕藩アウタルキーの巧妙な高度な、国際政治での戦略・判断だったのかも知れません。試行錯誤の果て辿り着いた結論が、中南米・アジアが植民地支配されていった、言語・宗教・遺伝子迄剥奪されていった前轍を踏まないために、「島原・天草の乱」を契機にして徳川政権が選択した決断は、1639年ポルトガル船入港禁止、つまり、「鎖国」でした。政権側としては、これは成功だったのでしょう。だから、徳川三百年の「平和」が実現したのですから。しかし、此処には、ヨーロッパ列強と正々堂々と渡り合う勇ましい姿ではなく、戦々恐々とヨーロッパの顔色を伺いながら自閉していかざるを得なかった徳川政権の弱々しい姿が垣間見えます。

 その後、信長以前から連綿と基層を流れていた中世日本の「リゾーム型社会」、つまり、民衆・百姓の一定主体的な社会参画・政治参画の要素を、ツリー型の中央政権型に転換する力が江戸幕藩アウタルキーなのでしょうが、これは完全なツリー型ではなく、疑似ツリー型でしかなかったのであり、それは、江戸幕藩政権の自覚ある限界だったのだと思うのです。だから、「藩」という地方自治、地域アウタルキー、つまり、「リゾーム型社会」を容認せざるを得なかったのです。「徳川」という統一政権であるべき「ツリー型」内部の「リゾーム型社会」を認めざるをえなかったのです。此が、徳川政権が達した妥協点・メリットであると同時に限界でもあり、大きな矛盾を内包していたのです。

この矛盾克服が正に明治政府による絶対主義国家建設→戦争国家建設であり、つまり、「リゾーム型社会」の萌芽の徹底的剥奪だったのでしょう。それが究極なまでに完成された極致が、1945年の「広島」・「長崎」であり、その後の価値観の反転・パラダイムシフトであり、とは言うものの、米国の事実上の植民地という非国家「ツリー型」社会であり、その流れの中での今現在の反動の時代、つまり、絶対主義国家再建→戦争国家再建に繋がっていくのでしょう。しかも、植民地状態のまま!つまり、とても危険な状態であることは明らかです。「リゾーム型社会」の萌芽、民衆・百姓の主体的意志すら徹底的に剥奪された被植民地疑似「国家」日本は、宗主国米国の意思通りに動かされるロボット国家に成り下がってしまったのですから。311 からも分かるように、「核実験場」日本列島まっしぐらなのではないでしょうか。隣国の核すら布石に使うという用意周到ぶりにはカタストロフ寸前が眼に見えます。

手遅れです。


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