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「自分」という『病』、「ホリスティック」という『病』」


(「免疫の意味論」多田 富雄/ 青土社1993/4/30 刊を読みました。)

 「自己」と「非自己」の区別という問題が免疫のカテゴリーで提起されている。免疫が、個体のアイデンティティを決定するという視点は面白い。「自己」というものの成立が如何に曖昧なのか、ともすれば、決定論的運命論に組してしまいそうである。免疫学での自己と非自己が、「近接し表裏一体のもの」~「なかみのない自己」という科学的見識は意義深い。個(individual/individuals)の全一性を条件として成立する。要するに、ホリスティックでこそ理解できる所見である。

 この書物から離れて考えて見ると、益々「自己」というものの摩訶不思議さに驚くばかりである。

 私は、未だ「『私』という自己」が分からない。其れ故の稚拙さ・オドオドした感覚・気に纏わり付かれている。ただ、ソクラテスの視点、(未だ「『私』という自己」が分からない)という無知を知っていることと、(未だ「『私』という自己」が分からない)ということすら分からない・無知の儘で居るのとは天地の差ほどもあるのは事実だろう。

 私は、未だ「『私』という自己」が分からない・・。

 「人間」という存在そのものの不可分の特性なのかもしれない。とすると、「人間」とは『病』なのではないだろうか。「自分」という『病』を生き抜くしか仕様が無いものが「人間」なのかもしれない。(未だ「『私』という自己」が分からない)という無知を知っていることすらも、大したことではなく、これすらも一種の「ホリスティック」という『病』なのかもしれない。だからこそ、ソクラテスのように、「死」は祝福されるもの、アスクレピオスに感謝の生贄が捧げられて然るべきものなのかもしれない。哲学者(Philo-Soph:愛智者)の「生」は「死」の練習なのかもしれない。その「生」を選択してしまった者、選択せざるをえなかった者の宿命であり、その宿命に対する「居直り」こそが哲学者を真の(Philo-Soph:愛智者)とする必要条件なのかもしれない。

 (未だ「『私』という自己」が分からない)故の稚拙さ・オドオドした感覚・気に纏わり付かれている限り、真の(Philo-Soph:愛智者)の途は歩めない故、真の(Philo-Soph:愛智者)の徒とはなれない。

 「自分」という『病』、「ホリスティック」という『病』」を生き抜くしか仕様が無いことに「居直り」、真の(Philo-Soph:愛智者)の途を歩め!真の(Philo-Soph:愛智者)の徒と成れ!

 それしか迪は無き故!


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